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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

シュレーバー、あるいは無意識の殉教者:セミネール『精神病』

*『諸々の精神病』(Le Séminaire livre III ; Les psychoses, Seuil, 1981)

 

 ラカンによればフロイトシュレーバー症例は『夢解釈』よりも画期的である。『夢解釈』には先駆者がいたが、シュレーバー症例においてフロイトは未曾有の領域を切り開いた。

 

 とはいえ、フロイトは「精神病の構造」を解明せずに終わった。フロイトのテクストの価値は問いを開いたままにしていることだ。そのいみで精神病への問いはフロイト的である。(「フロイト的もの」以来、ラカンは格言的な言い回しにハマっている。)

 

 精神病においては無意識が意識されているという見解は正しくない。精神病者には無意識がないのではない。「精神病において無意識はそこにある。ただし機能していない」。

 

 そのいみで精神病者は「無意識の殉教者」であり、無意識の「開かれた証言者」である(神経症者の「証言」は閉じられ、解読を必要とする)。

 

 神経症の症状が隠された真理であるのにたいして、精神病における妄想は露になり、「理論化」されてさえいる真理である(シュレーバーの妄想はいわばメタ=シニフィアン理論である)。

 

 妄想は治癒の「努力」であるとか同性愛への「防衛」であるという見解も、「努力」「防衛」の主体が自我と想定されているかぎりで正しくない。

 

 そもそもシュレーバーに同性愛とか女性化を帰したのはフロイトの冒した「飛躍」である。じゅうらいのシュレーバー解釈が無視していたのは「去勢」ということである。シュレーバーにおいて問題なのは「同性愛」でも「女性化」でもなく「父」性である。

 

 フロイトがナルシシズム概念を導入したのはシュレーバー症例であるが、想像界の領域しかカバーしないナルシシズムという概念に依拠したことはフロイトの限界である。

 

 「象徴的次元において拒絶されたものが現実界にふたたび現れる」。この場合、拒絶されたものとは「父というシニフィアン」ということになるわけだが、神経症においては抑圧されたものが「その同じ場所に」(in loco)「仮面をつけて」現れる(「抑圧と抑圧されたものの回帰とは同じである」)のにたいし、精神病において「抑圧」(要するに「外部」に「排除」)されたものは「想像界」(要するに「現実界」)という「別の場所に」(in altero)「仮面をつけずに」現れる。

 

 シュレーバーにあっては<他者>が「除名」(exclure)され(存在していないということではない)、他性が想像的次元に一元化される。シュレーバーの言う「魂の殺害」という事態をラカンは想像的な他者に向けられた殺意(攻撃性)に送付している。

 

 シュレーバーにとって「彼」は失われ、「唯一のパートナー」たる「汝」に吸収されている。

 

 この「汝」はシュレーバーにとっては「異物」として感じられるメッセージ(妄想)としてシュレーバーの「我」を占拠し、タルチュフのように主人たるかれを“我が家”から追い出す。

 

 「精神病のもっとも本質的な現象の一つ」は「ça が語る」ということである。つまり、主体が語るのではなく「ça」が語るということであり、精神病者にとって「ça」は[妄想という]パロールとして現れるということである。

 

 シュレーバーパラノイア患者がいっさいを自分に関係づけるとするクレペリンの指摘を取り上げ、じぶんはそのかぎりではないのでパラノイア患者ではないと主張する(『回想録』原書309頁)。そのかわりにシュレーバーはいっさいを“他者”に関係づける。

 

 フリース宛書簡においてフロイトはいみじくも書いている。精神病者は「自分自身を愛するように自分の妄想を愛している」と。ラカンはこの一節を「汝自身を愛するごとくに汝の隣人を愛せ」という聖書の一節に送り返す。

 

 とはいえシュレーバーの妄想に宗教的なところはない。シュレーバーの「神」は神秘主義的な熱狂の対象ではない。シュレーバーは一貫して客観的な証言者である。

 

 ちなみにラカンは上のフロイトの一節を中世の騎士道的恋愛に送付してもいる。

 

 パラノイアにとってそもそも「迫害者」は「迫害」(妄想)の影にすぎない(“父親に売り渡される”とのドラの“迫害”幻想との違い)。

 

 ラカンシュレーバー的な神を超自我になぞらえている。

 

 シュレーバーは意味作用をなさない「中断された文」を聞き、虫食いになっている「……」に適切な言葉を補填することを強いられる。言葉が際限なく浮かんでくるが、どれも適切な言葉ではありえない。

 

 ラカンシュレーバーの「中断された文」が相似性(共時態)の障害であるヴェルニケ失語を思わせると述べている。シュレーバー隠喩を使っていないこと、的なところがないことはそのひとつの証左である。

 

 正常者はこうした際限のない「内的ディスクール」に耳を傾けないが、精神病者にあってはシニフィアンシニフィエの「クッションの綴じ目」が外れており、「シニフィアンが独力で歌い語りはじめる」。「内的ディスクール」の際限のなさについてはシュレーバー『回想録』原書309頁以下のくだりが一度ならず引用される。

 

 「神経症の構造は問いであり、それゆえに神経症はわれわれにとって長らく純然たる問いでありつづけた」。

 

 主体はシニフィアンの連鎖をたどってみずからのアイデンティティを確認する。とはいえシニフィアンによっては表し得ないことがある。生殖(procréation)、言い換えれば生と死という事実である。ある個人が別の個人から個別化すること、言い換えれば、ある個人が誕生するためには別の個人が死ななければならないということは、シニフィアンによっては説明されない。そのかぎりでシニフィアンによっては「主体という奇妙な実在」を表すことはできない。

 

 神経症者の問いはこのような「主体」の「存在」への問いである。そしてヒステリー者の問いにおいて優位にあるのは「ファルスという中心」である。いわく「女である[=女性器をもつ]とはどういうことか?」(男性ヒステリーにおいても同じ問いが問われる。)

 

 一方、シュレーバーはこの神経症的な問いを「生きた状態で」(à l’état vivant)提示する。いわく「女になって性交されたらどんなにいいだろう?」

 

 「シュレーバーには父であるというシニフィアンが欠けている」。それによって、神経症者が象徴的行為(擬娩、父への同一化)によってこの問いを問おうとするのにたいし、精神病では生殖の現実的機能が問題になっている(「シュレーバーの身体は女への同一化というイマージュによって侵害される」)。 

 

 「『盗まれた手紙』についてのセミネール」「フロイト的もの」をつうじて主題となっていた「真理」は、本セミネールにおいてはフロイトが『モーセ一神教』で問うた「霊的」真理としての「父」へと送付される。

 

 「父の名」は、同時代の分析理論の潮流であった対象関係論(次年度のセミネールのテーマ)における母子関係の過度の重視を背景に導入された概念である。シュレーバーが神の実体とする「基本語」はこの「父の名」のいわばまがいものであるわけだ。

 

 妄想はシニフィアンであるが、意味作用を生じさせないシニフィアンである。「基本語」は原始語どうよう相矛盾することがらを同時に言い表すがこれはシニフィアンにおいてはあり得ない事態である。

 

 「男から男への子孫関係が語り始められるときにはじめて世代の差異という切れ目が導入される」。シュレーバーの発病は、早すぎる出世による「世代間の混乱」が「父であること」への問いを活性化したことの結果である。

 

 エディプス複合は<ファルス-母-子>という三項図式であり、父は「三者を一体として保持する輪」として位置づけられる。

 

 セミネール開講中ラカンハイデガーの論文「ロゴス」の翻訳を公にしている。<父の名>の概念が“集め置きとしてのロゴスがすべてを<一>に保持する”というヘラクレイトス的ヴィジョンと響き合うのは偶然ではない。さらにヘラクレイトスはこのことを“私にではなくロゴスそのものに”たずねよと述べている。

 

 翻訳者としてハイデガーの口調が伝染してしまったものか、講義ではハイデガー的な物言いがところどころで目につく。たとえばセミネール終盤の「街道」の比喩?

 

 「クッションの縫い目」の事例として注釈される『アタリー』における「神への畏怖」は、他のあらゆるものへの恐怖を浄化するものであるかぎりで父の名につうじている。

 

 ユーゴーの「麦束」は換喩ではなく、文の主語に位置する語の「置き換え」であるかぎりで「隠喩」とされる。ヤコブソンフロイト的な「圧縮」を隠喩に、「置き換え」を隠喩に送付するが、ラカンによれば「圧縮」も「置き換え」も換喩ということになるようだ。

 

 ピションの問題意識を継承した“Tu es celui qui me suivra[s]. をめぐるバロック的な考察は、本セミネールでラカンがたびたびケチをつけているシュレーバー症例フロイト的方程式(「私は彼を愛する」の変奏)に刺激されてはじめたふしがある。

 

 suivre が二人称、三人称のいずれで活用されているかは耳で聞くかぎりでは区別できない。それゆえ文の完成は聞き手に委ねられている(言い換えると、「ユダヤ=キリスト教的伝統の精神的基盤」たる「 je は tu を支えきれない」)。ラカンはそれゆえに“Tu es celui qui me…”をシュレーバー的な「中断された文」の典型とみなしている。ラカンは suivras (「信頼」)の方が suivra (「確認」)よりも tu との結びつきが「緩く」、それゆえ従わない自由を許容するとしている。

 

 ラカンシュレーバーの妄想が17世紀のプレスューズたちの言葉遣いに似ていると述べている。たとえば「魂の殺害」という言い回しはプレスューズが恋愛を語る際に使ったとしても不思議ではない。プレスューズ的な言葉遣いは「ランガージュが現実的なものの直接の理解に基づいていない」ことを示している。

 

 ラカンによれば、現代において支配的な「自由のディスクール」(「個人的存在」の自律性を要求する言説。革命の言説)は妄想のディスクールの一つである。より正確に言えば、両者は「同じものではないが同じ場所に位置する」。そして精神分析ディスクールは「自由のディスクール」ではない。

 

 フロイトにおける自体愛の観念と母子関係における原初的対象の観念は矛盾するようにみえる。この矛盾は autre と Autre を区別することによって解消する。

 

 「前エディプス的」関係というクライン的概念は「正当で豊かな考え」である。

 

 クレランボー的な精神自動症がアリストテレス的なアウトマトン概念に送付される。

 

 フロイト的 Verwerfung の訳語 forclusion は、もったいぶったすえに最終回の講義でお告げのように厳かにお披露目となる。

 

 周知のとおりフロイトシュレーバー症例にたいしては父シュレーバー(ダニエル・ゴットリープ・モーリッツ)の影響を過小評価しているという批判が諸家によってなされている。父シュレーバーについてはラカンもほとんど言及していない。れいの体操教則本に性行為の体位の指南のくだりを探し当てようとしたが徒労だったなどととぼけたことを述べているくらい。