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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

お喋りな演台:「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」

*「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」(1955年、『エクリ』所収)

 

 「鏡像段階」論、「ローマ講演」、「セミネール1巻」「同2巻」(L図、"Wo Es war...")、「『盗まれた手紙』論」(真理)のおさらいにして「セミネール3巻」(シュレーバー)「文字の審級」(ソシュール)を予告する論文。

 

 フロイトによるコペルニクス的「革命」が切り開いた道が、精神分析運動史のなかで逸脱してきたことが確認され、「フロイトへの回帰」が唱えられる。そして「フロイトへの回帰の意味はフロイトの意味への回帰」、つまりフロイト精神分析にあたえた第一義的な意味への回帰である。フロイトがかれの時代の問題にたいしてあたえた回答はなおアクチュアルである。

 

 本論文はこれに先立つ「『盗まれた手紙』についてのセミネール」から「真理」という主題を継承している。ポーの寓話におけるおのずから人物たちのあいだを循環する手紙は、顕現としての真理がおのずから明かされるがごとくである。そこにはあるしゅの「擬人法」(prosopopée)がある。「私は真理であり、私は語る」。

 

 「幕間」というセクションを挟む13のセクションからなる本論文は、いわば「真理」を主役とする劇ないし「寓話」仕立てになっている。『盗まれた手紙』におけるように「真理がフィクションの存在そのものを可能にする」?

 

 この劇はまずもって「演台」を狂言回しとする「喜劇」として開幕する。「話す演台」とは運動史を逸脱させた元凶である自我の「対象化=物体化」を揶揄したもの("chosisme")。そこでは自我は演台という「道具」であり、それを「製造」し、「操作」("opé-ra-tion-nel")するのは分析家であるとみなされている。話しているのは言うまでもなく講演者であって、演台そのものではない。

 

 返す刀で、自我は物ではなく物への意識であるとする現象学が退けられる。現象学者は「じぶんが言葉を話す演台であるという夢」を見ているのだ。演台の意識なるものは演台を製造したわれわれのそれにすぎない。「葦」に「思考」を帰したパスカルも同根。自我が物の反映であるとしても、自我は"directeur de conscience"(「魂の導き手」)を任ずるヤスパースの言うように、この反映についての意識などではない。

 

 「自我の健康な部分との同盟」を治療の原理とする見解は、自我を物体化の運命から部分的に免れさせているようにみえるが、患者の自我を分析家の自我のコピーに仕立てようとしているだけである。

 

 この「寓話」はアクタイオーンの悲劇の再演で幕を閉じる(クロソフスキーの『ディアーナの水浴』は同年)。光のなかに神々しく肢体をさらす美女という伝統的な真理の寓意とはちがい、フロイトにとって真理は現れる間もなく身を隠す女の謎である。ディアーナがアクタイオーンを誘う洞窟の「不潔で悪臭漂う」「湿った影」が真理の隠れ場所になぞらえられる(『盗まれた手紙』についてのセミネール」において女性の属性は「影」に帰されていた)。そこでアクタイオーンは切り刻まれ、コロノスのオイディプスのように「真理のとき」を見つけることになるのであるらしい。

 

 いずれにしても精神分析における真理が「大いなる欺き手」であり、「本質的にもっとも真実らしくないとみなされているもののなかを彷徨う(vagabonder)」ことはたしかである。失錯行為しかり夢しかり機知しかり。

 

 Adœquatio rei et intellectus.(ものの一致と判断)。これは真理のひとつの定義である。このうちの rei が reus (負債者)の属格と同型であることをもって、ラカンは「象徴的負債」についての議論へ大跳躍を試みている。

 

 本論文の脇役:「クレオパトラの話す鼻」「思考の犬」(?)「思考の鷲」(?)「心霊主義者の葦」「猟犬」「鳩」(?)「牛」「白子の黒人」「暗殺者」「屍体」「公証人」「鼠人間」「犬と狼のあいだ」「淫猥で獰猛な人物」「狡智をはたらかせる理性」その他。