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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

ラカンによるフェレンツィおよびライヒ讃:「治療-類型の諸変種」

*「治療-類型の諸変種」(Variantes de la cure-type, 1955)

 

 セミネール『フロイト理論と精神分析の技法における自我』開講中に『外科医学百科 精神医学篇』のために執筆された論文で、のちに『エクリ』に収録された。セミネール第一巻、第二巻における技法論をめぐる考察の要約的な論考。

 

 アンナ・フロイトらの主導する「抵抗の分析」は、抵抗が自我を主体とするものと想定しているかぎりで自我と主体をとりちがえている。ラカンによれば、抵抗は自我だけではなくエスにも超自我にもかかわるというのがフロイトの第二局所論の教えであった。

 

 対象関係論における分析家の自我(よい対象)の取り込みという観点も、分析的状況を自我のレベルに還元してしまっている。

 

 それにたいしてフェレンツィおよびライヒが評価される。

 

 フェレンツィは分析家自身の心的過程における「メタサイコロジー」の必要を説き、分析家の自己愛と「エゴイズム」にたいする注意を喚起している。教育分析の必要性および分析の終了の重要性についての問いもそこから発している。

 

 「能動的分析」の主導者であったフェレンツィは、その一方で分析家の「非-知」にたいする認識において評価されねばならないというわけだ。

 

 一方、ライヒの「性格分析」は、「男根的=自己愛的」「マゾヒズム的」といった「性格」が、ヒステリーや強迫神経症といった症状(主体にたいして異物として構成される)と同じ「構造」的産物であることを想定している点において評価の対象となるが、それがオルガスムにたいする個体の防衛を機能とするという観点に限界がある。

 

 ライヒの過ちは一般に考えられているようにオルガスムという神秘主義的なエネルギー実体を想定したことではなく、むしろ個人を防衛の主体と前提していることにおいて自我心理学と同じ穴の狢であるということらしい。

 

 分析の実践に standard を設けようとする試みが多少とも神秘主義的な standing のそれへと陥る危険を孕むとする問題提起ではじめられた論文は、フロイトの提示する分析基準はフロイト個人にとっての基準であるにとどまるとする「分析家にたいする分析治療上の注意」の引用によってしめくくられる。その一節に読まれるべきは、分析家の「非-知」にたいする本質的な認識にほかならない。