lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

ランガージュへの集中砲火:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十二講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 第二十二講(15/06/1955)

 

 サイバネティクスにおけるメッセージ概念。「ランガージュはメッセージのためにあるが、コードではない。ランガージュは本質的に曖昧であり、意義素はつねに多義的で、シニフィアンはつねにさまざまな意味、ときにはきわめてちぐはぐな意味を帯びる」。

 

 ウェルズの譬え話。火星語?のメッセージを三人の学者たちが別様に解釈する。「ランガージュの代用物」に基づいて学者たちは「パロール」を受け取るが、「コード」はない。譬え話の教訓は「各自がじぶんにむけて顕現した呼びかけや天命を理解するのはランガージュの世界においてである」ということ。

 

 哲学者たちは誤謬をランガージュの存在に帰してきた。つまり、主体はランガージュにたいするじぶんのポジションを知る必要があることだ。精神分析の教えるところは主体が「ランガージュのようなもの」すなわち「普遍的言説」にすでに巻き込まれているということ。普遍的言説とは、有史以来、現実に言われたことを指す。「普遍的言説との関係において主体は主体として位置づけられ、普遍的言説に書き込まれ、普遍的言説によって決定される」。そして「主体の機能は、かれがこの言説を継続するというかぎりでこの言説のなかにみずからの位置を見つけることにある」。「主体は誕生以前から[……]具体的な言説の原子として位置づけられている。主体はこの言説のダンスの列のなかにいる。主体はかれじしんひとつのメッセージである。[……]かれの全体がメッセージの連鎖のなかに位置づけられる。そしてかれの行う選択のひとつひとつがかれのパロールである」。

 

 「はじめに言葉ありき」の「言葉」とはランガージュであり(通常そう解されているように)パロールではない。このあとで神は「光あれ」というパロールを発する。人間はパロールにs’intéresse(s’inter-esse)している。メッセージが「彷徨う記号」であるのにたいし、人間がそのなかに統合されている普遍的言説は動かない。

 

 ラカンの晦渋なランガージュ概念にたいして列席者の集中砲火が浴びせられる。

 

 リゲ:数学においてはランガージュはコード化によってのみ定義されるが、あなたはランガージュをコミュニケーションの基礎をなす普遍的ランガージュとして捉えている。

 ラカン:数学における形式化された象徴はランガージュが人間主体から独立して存在しているとみなしている(「数は絶対的に存在する」)。つまり「記号の世界が循環し、その世界にはいかなる意味作用もない」ような万能機械を想定している。意味作用はこの機械を止め、その循環に時間的切断(スカンシオン)を入れることでうまれる。

 リゲ:機械には人間と共通の象徴の宇宙はない。

 ラカン:しかし機械を作るのはわれわれ人間だ……。

 

 さらにマルシャン,ポンタリスの追い打ちがつづくが、ラカンは一貫してのらりくらりと攻撃をかわしていく。その途上で、個々の言語(国語)からは独立した「純粋状態のランガージュ」が口にされ、「ランガージュとは一つの具体的な宇宙」であり「完全な体系」であると定義される。

 

 列席者の猛追を強引に振り切るかたちで、ウェルズの譬え話を受けて「論理的時間」における三人の囚人の譬え話がふたたび引かれ、ランガージュとパロールの区別が確認される。

 ここにおいてランガージュは「黒が二つ……」という所与のなかにあり、この所与は「現実の外にある」。パロールは主体が「私は白だ」と確認する行動によって導入される(純粋に論理的なプロセスではない)。「急ぎ」は機械には属さない時間の次元であり、想像的(間主観的)推論の時間とは異なる。こうした「ランガージュの象徴的時間」「断言の時」がパロールに固有の時間性である。

 

 さいごに「はじめに言葉ありき」の「言葉」がランガージュであることがあらためて確認され(あいかわらず反論が続出する)、この一節が第四講で引かれた「すべてを創ることによって至上のものはなにを創るのか――みずからを。しかしすべてを創るまえにかれはなにを創るのか――わたしを」というシェプコのニ行詩に送り返され、ランガージュ(0/1)がプラトン的想起説が前提するように太古から人間とは独立に存在していたのではなく、「絶対的始まり」「創造」があると述べられる。ラカンによれば、こうした観点はプラトンフロイトを分かつためのひとつの方法である。

 「私」と考えているとき、この「私」は不滅である。ところが「私」と口にされるや否や、破壊が可能になるとともに創造がある。この創造が未来を可能にする。この未来が想像的なものにとどまらないのは「私」が先行するすべての言説に支えられているからである。ルビコン川を渡ることが「象徴的行為」たりえたのは、カエサルの過去の一切によってである。すべては過去の関数である。この過去はわれわれが認識しておらずとも太古からランガージュ(0/1)のなかに書き込まれている……と列席者を煙に巻いて講義は閉じられる。

 

 Restons-en là, c’est un peu rude aujourd’hui!