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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ドッペルゲンガーそしてファルス:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十一講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十一講(04/06/1955)

 

 「貞節を動機づけるのは誓いの言葉(パロール)にほかならない」(プルードン)。妻の誓いは夫個人をこえて「すべての男」に向けられ、夫のそれは「すべての女」に向けられる。「すべての男」とは「普遍的男」つまり「象徴」としての男といういみである。このような象徴的契約と夫婦の想像的関係とのあいだには(「想像的父」と「象徴的父」とのあいだにあるような)「葛藤」がある。この「葛藤」がブルジョワ階級の宿命的に経験する葛藤の基礎にある。ブルジョワ的な葛藤は「自我の実現」という「人間主義的な」葛藤であり、それゆえ自我に固有の疎外をともなう。この葛藤は自明であるが、その理由を説明するのはむずかしい。レヴィ=ストロース的な「基本構造」は複雑であるが、「複合構造」は単純な見かけをしている。

 

 結婚の自由は幻想であり、結婚の選択は基本構造が優先する要素にしたがっている。親族の基本構造において女性は交換の対象である。象徴的次元は男性中心的なものであり、女性を疎外する。女性は象徴的次元において従属すると同時に対象でもある。それゆえあるしゅの分析理論は、女性にたいして男性はかつては神であり、ついで主人であったが、現在ではライバル(想像的関係)となった(ついで子供となる)という図式を提示しているが、性的闘争は永遠のもので(婚姻関係はそれを制度化したもの)、女性解放運動の時代に特有のものではない。

 

 『アンフィトリオン』の教訓は、夫婦関係が成立するには三角関係が必要であり、神の介入がなければならないということ。つまり、「普遍的男性」としてのジュピターがアンフィトリオン夫婦の「想像的関係」を支えているということだろう。性器愛は本能的成熟の成果としてのカップルとイコールではない(バリント)。第三者(神、パロール)の介入がなければ、性器愛は性行為と愛情(性器愛以前に遡る)とのアマルガムにすぎない。

 

 プラトゥヌス以前のギリシャ神話にも自我はあったが、「語る自我」つまり分身(Sosie)は喜劇の枠組みのなかではじめて登場しえた。

 

 「主体における象徴的な次元と現実的な次元の矛盾」(「離人症」)にくるしむソジーにたいして「自我のさまざまな属性をソジーの自我のなかに再統合させてやる」アンフィトリオンは分析家の象徴といえるが、分析家は[分析という]愛する我が家から追い出された(exilé)アンフィトリオンの位置にいる(ただし妻を精神的に寝取られる被害者は患者の方?)。

 

 『アンフィトリオン』における主人と従僕の関係が強迫神経症における「自我の致死的影響」への考察へと繋げられる。

 強迫神経症者の主体は「みずからじぶんじしんの所有権を手放してしまった自我であり、この放棄は「想像的死」をもたらす。強迫神経症患者は「想像的に死んだ」自我に固執している。「強迫神経症者はつねに一個の他者」であるからだ。かれはじぶんじしんを「客体化」しており、みずからの欲望を他者の欲望として提示する。かれの欲望とはじぶんじしんの破壊の裏返しとしての他者の破壊である。問題はこのような根源的攻撃性を患者に承認させることではなく、かれがみずからとのあいだに結んでいる死に至る関係の機能を認識させることである。かれが「死んでいる」のは「主人に対して」であり、「享楽の対象との関係において」である。かれは享楽を消して主人の怒りを呼び覚まさないようにしているつもりでいるが、このとき主人に仕えているのはかれ以外の者であり、あるいはかれじしんは別の主人に仕えている。欲望するかぎりでかれは一連の人物へとかぎりなく分裂する。フェアバーンによれば、主体のなかにはエス、超自我、自我いがいの多くの[鏡像的]人物が住まっている。ソジーが学ばなければならないのはじぶんがアンフィトリオン(「何も理解せず、他人が何を望んでいるかを理解せず、妻を抱くだめには凱旋将軍であればじゅうぶんだと信じている栄光につつまれた男」)であるということ。ラカンアンフィトリオンに『盗まれた手紙』における王の人物像をいくぶんか重ねているようにおもわれる。

 

 ついでフェアバーンラカンはこの人を批判しつつもけっこう高く買っている)による半陰陽の症例にそくしてファルス概念が導入される。

 フェアバーンは患者のさまざまな欲動を再統合させようと試み、男を傷つけたいという欲動への罪悪感をもたせようとしたが、これは患者に一つの自我と超自我をあたえることである。じっさいには男が患者のうつ状態を引き起こすのは、男が患者自身のことである証拠。男性への想像的同一化とペニスの象徴的価値(ファルス)との矛盾としてのペニス羨望をこの症例は鮮やかに示している。

 

 たしか『転移』のセミネールにおいてラカンは喜劇というジャンルをファルスの現前によって定義している。喜劇のコメントからはじまるこの日の講義がファルスへの言及で締め括られていることにはおおいなる必然性がある。