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惑星はなぜ話さないのか?:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析における自我』第十九講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 第十九講(25/05/1955)

 

 なぜ惑星は話さないのか?

 

 『我が闘争』においては「人間同士の関係が月同士の関係のように語られている」が「われわれもとかく月同士の心理学や精神分析をする傾向がある」。

 

 惑星とはちがい、人間は主体の満足[欲望]を他者の満足[欲望]との関係においてもつ。(惑星は他者をもたない。)

 

 問題になっているのは「根源的な他性」、ある答えに「失望したということはその答えが真の応答であったこと、まさに予期していないものだったことを証明している」ような他性のこと。

 

 そのような他者について理解するには『パルメニデス』における「一と他」についての厳密な考察を読むべし。

 

 惑星が話さないのは惑星が「黙らせられた」からでもある。動き回る惑星にはかつては主体性が想定されていた。ところがニュートンによる統一場の導入によって、宇宙は言説の宇宙(「F=ma」)という象徴的なものによって置き代えられる。それ以来、天体は言葉を奪われた。

 

 つねに同じ場所に見出される星とは、「それであるところのもの」、つまり「現実的なもの」である。コタール症候群の患者(「私には口がない」)は、口が象徴するあらゆる裂け目を欠いたイメージに同一化している。かのじょらは「衛星の世界」に住んでいる。「死んでいると同時にもはや死ぬこともできない」。「主体がここで想像的なものと象徴的に同一化しているかぎりで主体は欲望を実現している」。

 

 精神分析の目的は統一場の導入によって患者を黙らせることにあるのだろうか。ヘーゲルのいう歴史の終焉においてランガージュを必要としなくなった人間は動物になるのだろうか。

 

 惑星が話さないのは時間という次元をもたないからだ。なぜもたないかというと、惑星は丸いからだ。球体はつねに同じものでありつづける。分析の目的は自我を丸くすることではない。

 

 「シェマが一つの解答を示すのであればもはやそれはシェマではない」との断りとともに“シェマL”が導入される。

 

 鞄の中身を分析家に見透かされているという考えに取り憑かれた患者の症例。鞄の中身とは部分対象の象徴であり、分析家の人物像をとおして部分対象を想像的に受け入れるという観念は、Comulgatorio(グラシアン)つまり聖体拝領の秘蹟のように分析家を想像的に貪り食うことにまで至る。分析はこのような「主体の想像的、根源的分断の再統合」を目的としてはならない。分析家の養成が理想とするような「自我のない主体」の創出こそ目指されるべきものである。

 

 <<Wo Es war, soll Ich werden.>>は、分析の終了において、Es(エス/主体S)がパロールを携えてほかの<他者>たちとの関係へ参入しなければならない、「S」があったところに自我がいなければならないと解されるべきである。