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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

コロノスのハムレット:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十八講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第十八講(19/05/1955)

 

 「リビドーの概念は精神分析的効果の領野を統一する概念」であり、「リビドー概念を使うことは一つの世界(統一場)へ到達しようとするあらゆる理論の伝統のなかにある」。「フロイト的経験は理論的な見方とはまったくぎゃくの考え方から出発している。それは欲望の世界を置くことからはじまる」。「フロイト的世界はものの世界ではない。存在の世界ではない。欲望の世界である」。ちなみに前講では「世界」が「ランガージュの構成する宇宙」と定義されている。

 

 対象関係における「パターン」とは「正常な対象」への「適応」をいみし、人間主体と現実世界の適合(co-naissance)を前提しているが、じっさいには「欲望とは存在欠如(manque d’être)への関係」であり、「欲望とは名づけられないものの欲望である」。

 

 「コペルニクス的転回」が限定された事物の世界における転回であるかぎりで、フロイトの辿った歩みはそれとは逆方向への「転回」である。デカルトからアインシュタインに至る科学史を支えていたのは「神は欺かない」という前提である(次講参照)。

 

 リビドー概念はアリストテレスのヒステリー論において先取りされている。アリストテレスは男性性器のように明確な表象をもたない子宮を凶暴な小動物としてイメージしていた。ただしアリストテレスはこの小動物が言葉を解すること(パロールが治療効果をもつこと)を理解していなかった。

 

 リビドーについては神話的にしか語れない(genitrix, hominum divumque voluptas.)。フロイトが欲望を性的欲望に帰したとき、弟子たちは性的対象の教示をもって「解釈」とみなし、その不首尾を患者の「抵抗」に帰したが、じっさいには「患者の側には抵抗はない」。分析家が「抵抗」とみなしていたのは患者自身が行う「解釈」の現れであり、分析家がそれを「解消」すべき「抵抗」として抽象化して捉えていたのだ。そのいみでは「ただひとつの抵抗しかない。それは分析家の抵抗である」。

 

 「ギリシャ神話の主人公たちはすべてオイディプス神話となんらかの関係があり、かれらは別の面でこの神話を具現し、この神話の別の局面を示している」。「オイディプスの生涯そのものがまるごとこの神話である。オイディプス自身、神話から実在への移行いがいのなにものでもない。かれが実在したかしなかったかはたいして重要ではない。かれはわれわれ一人ひとりのなかにも実在しているから。かれはいたるところに実在し、かれが現実に実在した以上にしっかりと実在している」。「心的現実」は「真の現実」に対置すべきものではない。

 

 「オイディプスは実在している。かれはじぶんの運命を最後まで実現した。それはじぶんじしんによって雷に打たれ、引き裂かれ、破棄されることとまさに同じこと。つまり、かれは完全になにものでもなくなった。『わたしが一人の人間になるのは、わたしが存在することをやめるこのときだろうか』」。「神託パロールの中心的結び目」であるオイディプスがその神託パロールを完全に実現して死ぬ。「大地の屑、ごみ、滓」「もっともらしい外見をいっさい失ったもの」となったコロノスのオイディプスをラカンはポーのヴァルデマル氏に重ね合わせる。いわく「吐き気を催すような溶解物[……]どんな言葉によっても名づけられないもの、直視できない姿のむきだしの、なまの、裸の現れ」「人間の運命についてのあらゆる想像力の背後にあるもの」。「死であるような生」というフロイト弁証法。「生とは一つの膨らみであり、黴」(『快原則の彼岸』)。「意味」ある生という「人間的」なヴィジョンが問いに付される。

 

 ある時点までのフロイト理論は死に関係するものをも含めて均衡(秩序と調和)を指向する閉じたリビドー経済の枠内で説明しようとしていた。たとえば想像的同一化という概念において攻撃性をそれとはいっけん相反する要素であるリビドーに帰していた。ところが『快原則の彼岸』においてその限界につきあたる。マゾヒズムはもはや逆転したサディズムではなく、原初的なものと位置づけられる。『コロノスのオイディプス』が示しているような陰性治療反応の根源性、「生は癒されることを望まない」というヴィジョン。

 

 治癒とはなにか?「他所からやってきて主体を横切るパロールによる主体の実現」である。

 

 くだんの「眠りたいという欲望」が、名前のない欲望つまり死の欲望に委ねられているという「生のもっとも自然な状態」に帰される。「死ぬこと、眠ること、そしておそらくは夢見ること」。つまり「to be or not to be」。この一文は夢や機知もそこに基づいているランガージュの次元を生み出す原理を表している。

 

 「生まれてこないほうがよかった」という合唱隊の台詞が想起され、この台詞にたいし「残念ながら十万回に一回もないだろう」と返す機知が紹介される。まじめぶった確率計算によってリアクションしているところが滑稽であるわけだが、「機知が機知であるのは、それがわれわれの実在にあまりにも近いので、笑い飛ばして無効にしなくてはならないから」。パン屋で代金の支払いを拒否する男の機知にしても仲人の機知にしても、「実在しないものを実在させる」象徴の顕現に関わっており、現実的な世界とパロールの継目における欲望の出現が関係している。骰子の印もこうした象徴であり、骰子が振られることで欲望が生じるが、賭け事をする人を囚われにするこの欲望は「人間の」欲望ではない。