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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

知を想定された主体:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十七講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店

 

 第十七講(12/05/1955)

 出席者の質問へのコメントというかたちで進められる。以下、箇条書きで。

 

 反復強迫を規定する「執拗さ(insistance)」はランガージュの根底にある機能。

 

 「人は知っている者の立場に立たされているあいだはつねにじゅうぶんに知っている」。真の教育は教える側に無知への自覚と知への欲望を引き起こすそれ。

 

 新聞で犯罪者[予備軍]の「責任能力」を説く精神科医の反フロイト的な「ヒューマニズム」への疑念。主体を規定するのは「主体の動機についてとらえることのできるすべてを越えて執拗に続くこの象徴的縦糸、根本的文」、つまり『盗まれた手紙』における無意識としての手紙であり、オイディプスの目から覆い隠された神託である。典型的劇『オイディプス王』の「彼岸」に位置する『コロノスのオイディプス』には、人間と人間が知らないでいた言説との関係の究極のかたち(死)が書かれている。

 

 「主体の原初的な裂け目」に由来する自我は、無意識の言説の主要な一部をなし、象徴的現実が主体の現実に組み込まれるのに不可欠な要素である。「自我は人間主体の心的活動においてもっとも近く、もっとも密接で、もっとも近づきやすい死の出現」である。想像的関係が迂回されるのはそのため。「自我は主体がそのなかにとらえられ疎外されていると感じる共通の言説と主体の心的現実との交点」。

 

 執拗さは慣性ではない。分析における抵抗とは慣性にたいする抵抗(慣性そのものには抵抗はない)。抵抗は分析家自身のなかにある。

 

 「無の欲望」としての欲望。『夢解釈』において一つの欲望が明確に突き止められている例はない。「すべてはこの欲望が解き明かされていく過程のさまざまな段階、階段、ステップ」にすぎない。欲望の「実現」は隠喩にすぎない。フロイトは「眠りたい欲望」について述べているが、睡眠を維持したいという欲求は自我において現れる(「無意識的幻想」というフロイト自身の概念)。

 

 「私がなにものでもなくなり、一人の人間になるのはいまなのだろうか」(『コロノスのオイディプス』)という言葉はオイディプスの精神分析の終了(アクティング・アウト)。

 

 強迫神経症における贈与は、あらゆる物の享楽を永久に剥奪させる。問題はかれが死んだ主人の奴隷になっていることを言説の弁証法によって気づかせることである(「脱言語化」概念批判)。

 

 現実的なものの軽視というポンタリスの疑問にたいする[曖昧な]弁明。