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2は奇数である:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十五講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店

 

 第十五講(30/03/1955)

 

 イルマの夢においても狼男の夢においても、「主体は解体し、消え失せ、主体のさまざまな自我へと分解している」。いずれにおいても「究極の現実的なものにたいする恐怖」が経験される。フロイトはそこを「夢の臍」と呼んでいる。「あらゆる間主観的関係を越えた他者への関係」。

 第四講におけるエゴなき意識という「神話」がふたたびとりあげられる。意識とはエゴと純粋知覚(いずれも主体とは擦れ違いの関係にある)とのあいだの緊張であり、そこにおいてエゴは主体と知覚とを切り離す。想像的関係が限界にまで至る条件下においては主体はエゴを越えてイド(quod)と直面する。

 『盗まれた手紙』における「丁半あそび」はラ・ロシュフーコー、マキャベッリ、カンパネッラの心理主義にも比すべきもので、サイバネティクスの専門家にも評価されている。ゲームをする機械が近年発明されたが、機械相手にこのような心理主義は無効である。機械にたいしては同一化ではなくランガージュという手段が選択される。つまり、機械に可能な組み合わせの考察(ここで当時話題のトランジスタへの言及がある)。そこにおいて一回かぎりの勝ち負けはいみをなさない。組み合わせにおいては2という数字が基本要素となる。それゆえ2はあるいみで奇数、しかも「もっとも奇数らしい奇数」である。このとき丁半はもはや現実の次元にはなく、象徴の次元にある。機械との勝負においては「+と-からなる一定量の情報が積み重ねられ、そのつど相互に組み合わされた変形がおこなわれる連続的なメカニズム[それは偶然を排除する]が、けっきょく二人の人間の対決のばあいに起きることとよく似た、そのつどの調整をする」。無意識の主体の「歴史」(「想起」)は前者のように構成されており、「記憶」とは区別される。主体[の意味作用]を規定するのはキュクロプスにも比すべき現代の機械、「イルマの夢のなかで出会われたものよりもさらに無頭のもの」である。

 『盗まれた手紙』において問題なのは心理ゲームではなく「弁証法的ゲーム」である。その教訓は意味作用(先入観)はそこにあると信じられている場所にはけっしてないということである。

 快原則の彼岸(反復強迫もしくは転移)はそのような[機械の]「象徴的効果」(レヴィ=ストロース)もしくは「象徴的慣性」に帰される。