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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

イルマのお告げ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第12〜13講

第十二講(02/03/1955)

 

 「夢見る人は、じぶんの夢の欲望にたいする態度においては、内なる共同(une intime communauté)によって結び合わされた二人の人物でできているかのようにみえる」(『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」)。ここに読まれる「主体の脱中心化」という考え方はジャネによって先取りされているが、ジャネの心理学的関心においてはそれは逸話(historiolae)にとどまっていた(「二重人格」)。対象の「再発見」は想起という予定調和的なシナリオをたどるのではなく、対象の喪失を媒介とするというヴィジョンは、フロイトの著作の「形而上学的射程」を予見させる。それは「主体とは何か」という問いによって導かれる。

 

 『夢解釈』第7章・第2部(「退行」)の局所論的シェマにおける同と他、一と多のパルメニデス弁証法。心的装置は複数のシステムから成るが(P, S1, S2…)、個々のシステムのいみを特定しようとしてもむだである。問題は複数のシステムの連続性である。「心理学草稿」のシェマでは同一であった「知覚」と「意識」が、逆説的なことにここでは無意識の入り口と運動の出口とに隔てられている。晩年のフロイトは「自我の核」として両者をふたたび結びつけたが、これはじゅうぶんな解決策ではない。

 知覚(獲得)と記憶(集積)の乖離はマジック・メモというモデルによって説明されている。

 抵抗により意識に到達しない興奮(幻覚、夢)を説明する概念が「退行」。「退行」は多義的な使用によっていみがあいまいになっている。

 「フロイトが退行を導入せざるを得なかったのは、かれが心的経済における知覚機能を原始的でバラバラで要素的なものと考えていたから」。そのような要素的なものとしての知覚に意識を関係づけることの困難。

 行動主義における意識の還元は、意識への問題意識の隠蔽にすぎない。

 心的装置の「核」としての「エゴ」は知覚のレベルにはない。「心理学草稿」のシェマは『夢解釈』のシェマと重ならない。後者においては時間的次元が導入されている。時間的次元の導入によって「退行」概念が召喚されたが、「そのせいでフロイトは退行というものを時間的にのみならず、局所論的つまり空間的平面においても認めなければならなくなり、その平面で退行は収まりの悪いものとして現れる」。退行は逆説的な概念でありつづける。

 

 

第十三講(09/03/1955)

 

 イルマの夢。「われわれにとって重要なことは、フロイトの思索のさまざまな段階を同一平面に置こうとすることでも、それらの辻褄を合わせることでもない。重要なことは、かれのさまざまな段階の、矛盾をはらんだ思索のこの進歩が、どのような唯一不変の困難を反映していたかをみること」。この一節はハルトマンを標的にしている。文化的文脈を重視するエリクソンの文化学派も、「エゴ」の発達の諸段階を想定する心理主義(ハルトマン)と同じ穴の狢である。イルマの夢は、フロイトの「エゴ」の発達の一段階ではない。

 

 イルマの口(「裂け目」)の中にフロイトがみたものは「不安の視覚化、不安の同定、『お前はこれだ』という究極的な啓示、つまり『おまえはこれだ、つまりおまえからもっとも遠いもの、もっとも形のないもの』だというそれ」。ラカンはこれを「ダニエル書」の啓示 Mané, Thecel, Phares に送り返す。エリクソンはいみじくもフロイトがこのイメージを前にしてなぜ覚醒しなかったのかと問いかけている。エリクソンによれば、それは「エゴの退行」による。ところでフロイトによれば、エゴとは一連の発達段階によって定義されるものではなく、偶発的な同一化の総和である。自我とはいわば「小道具倉庫のガラクタの山から拝借してきた何枚もの上着の重ね着」。「心的因果性」論文の参照が促される。

 

 フロイトは年長の兄フィリップの存在のおかげで象徴的父との対峙を免れた。夢のなかの女性のトリオ(イルマ+妻+別の患者)と対をなす「道化のトリオ」の一角M博士は、そのような「想像的父」、「偽の父性のイメージ」である。神秘的な「三」(三人姉妹、三つの小箱……)の背後には「死」が潜む。神託のような三項図式からなるトリメチラミンの化学式が、くだんの「ダニエル書」の三語になぞらえられる。「その発せられ方、その謎めいた晦渋な特徴こそが、まさに夢の意味は何かという問いにたいする答えである」。「三」とは象徴的な第三項である。「至るところに見出されるこれらの三、まさにそこに、夢という形で、無意識つまりあらゆる主体の外にあるものが存在している」。無意識は夢を見ている人の「エゴ」ではない。この夢においてフロイトの自我は解体されてあらゆる要素に同一化し、「フロイト的群衆」もしくは「主体たちの干渉」(l’immixtion des sujets) がすがたをあらわす。ぎゃくにいえば、無意識とは「Nemoとしての主体」である。

 「象徴的なものという本質以外には夢の語はない」。「象徴は象徴という価値以外には何一つ価値をもっていない」。