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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

フロイト思想の誕生:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第8〜9講

 

第8講(26/01/1955)

 

 「基本概念」としての「欲動」。心身症と対象関係との関係を扱ったペリエの発表へのコメント。対象関係という観念はその前提となる自我と他者のナルシシズム的関係を覆い隠す。「神経症はつねにナルシシズム的な構造によって枠どられている。しかし神経症そのものは別の平面にある」。対象関係ではなく、現実界という概念を参照すべきである。現実界には裂け目がない。それは環界(Umwelt)と内界(Innenwelt)の相補的全体性というフォン・フリッシュ的な論点先取りを意味しない。後者は適応という観念を前提している。

 

 パロールの交換という循環的過程としての反復。「主体にとって外在的な象徴の回路があり、この回路はその支えである人間という代理人のグループに結びついているが、この回路の中にこそ主体つまり主体の運命とよばれる小さな循環が際限なく含まれている」。この交換を記録する装置がないので、「内的ディスクール」への回帰(ディスクールの「ダンス」「ロンド」)が促される。

 

 「心理学草稿」についてのアンジューの発表。自我とは、全般的慣性に則る刺激-放出のシステムのシステム内システムとしての緩衝システムを起源とし、現実原則を導入する。

 

 意識を司るωシステムという逆説的なシステム(「エスのシステムの先駆」)の位置づけにフロイトは成功していない。

 

 対象世界の形成は対象の「再発見」である。プラトン的想起における「再発見」は、人間と対象世界との調和を前提している。一方、キェルケゴール的反復は、「征服という労働の努力において世界を構造化する」。満足が不完全であるかぎりで主体はさらなる満足の探究に無限に身を委ねる。反復において再発見される対象はさまざまな代理の対象である。ここにおいて環界と内界(=欲求)は一致していない。

 

 「草稿」にはナルシシズムという観点が欠けていた。

 

 

第9講(02/02/1955)

 

 ラングの発表を受けて、退行とは象徴であり、現実のメカニズムではないとされる。「退行などというものは存在しない。退行とは解釈されるべき一つの症状である」。

 

 心的装置の四つのシェマが板書される(「心理学草稿」、『夢解釈』、リビドー論、「快原則の彼岸」)。「あらゆる科学的進歩は、対象をそれとしては消し去ってしまう」。ここにおける「対象」は「存在」を意味しない。精神分析は人間存在の「消失点」を描き出す経験。「存在」とは「主体と象徴的なものとの関係が出現する地点」であり、「夢の臍」のように科学的観点からはアプローチ不可能なもの。

 

 反応図式(適応観念)からエネルギー論(量概念)へ。外部からの「インプット」からエネルギーの「恒常性」へ。「草稿」におけるω系の導入はその移行にあたっての「補足的仮説」。外界からのいちいちの刺激ではなく外界そのものの構造を反映する内的装置としての知覚システム。刺激による興奮のフィルターを通しての「書き込み」(エクリチュール、疎通)はホメオスタシス概念を前提。疎通の総和(=記憶)が外界(現実的なもの)の表象。そこに想像的な「ゲシュタルト」(人間がそれと co-naissance するもの)は介入しない。

 ところで、φ装置の機能原則は幻覚(一次過程)であり、そこからフロイトは、エネルギー論的観点からは逆説的な自律的な意識システムの再構築という迂回を経る。

 

 緩衝的な制御装置(フィルター)としてのω系は、エネルギーそのもの(量)とではなく、周期(質)と同調。フロイトは心的装置を一次過程と二次過程に分割。

 時間の次元が導入される『夢解釈』においては心的装置という概念では不十分。

 「思考」とは備給が最小レベルに維持された「行為」(行為のシュミレーション)。

 動物における中立的な世界の反映は、人間においては意識として現れ、人間はこの反映を他者の視点から見る。人間は自分自身にとって一個の他者。意識の透明性という幻想はそこに由来。

 

 フロイトは機械論的思考から心理学的思考に移行した(クリス)のではない。フロイトの移行は情報という概念を導入によって画される。