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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ヘーゲルの時代とフロイトの時代の間に起きたこと:『ル・セミネール』第2巻(第5〜6講)

 

第5講(15/12/1954)

 

 イメージしたいという欲求に負けて、主体を実体化するべからず。

 

 「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」のようにじぶんじしんを数え入れるかどうかが人間の精神年齢の測定の基準とされている。ところで「主体として機能する個人は、どこでじぶんじしんを数えるのか。無意識においてである」。

 

 意識によって意識じたいを捉えることで(実存主義)、自我の実在は意識に還元されてしまう。意識は主体にとって hétérotope な現象である。夢は意識に似ており、鏡に似ている。『心理学草稿』および「メタサイコロジー」のフロイトは、意識のシステムを心的エネルギー論の内部に位置づけることに成功していない。自我の明証性は、「単一で、個別的で、還元不可能な経験」としての意識に付与された権威に由来するものであるかぎりで近代に特有の歴史的な観念である。

 

 フロイトは第二局所論において自我を再導入したが、それは主体の外部としての自我である。慣性の法則ホメオスタシス)に則るフロイトのエネルギー論は、ある時点で無意識の「執拗さ(insistance)」に突き当たって挫折する。

 

 

第6講(12/01/1955)

 

 抵抗の分析は技法上の革新であったが、理論的混乱をもたらした。

 

 精神分析ヒューマニズムか。「人間がじぶんの尺度をもつのは人間そのものにおいてであろうか」。死の欲動フロイトによるアンチテーゼである。それは現実原則をはみだす現実を射程に入れている。「ヘーゲルは人間学の限界に位置している。フロイトはそこから脱出した」。「フロイトが発見したことは、人間は人間の中になどないということだ。フロイト人間主義者ではない」。デカルト心身二元論が一個の人間のまとまりを分断して以来、医学は身体を機械として扱うようになる。デカルトは『人間論』において人間を時計に帰している。同時代のパスカルが発明した計算機を発明したが、これはその他の道具よりも人間の現実に近い。「機械は人間におけるもっとも根本的な象徴的活動を具現する」。象徴的なものについての問いを立てるには機械の出現が必要だった。ヘーゲルとナポレオンは同時代に発明された蒸気機関の重要性を理解しなかった。フロイトにあり、ヘーゲルにないものはエネルギーという問題意識である。これがフロイト的無意識とヘーゲル的意識とを分かつ点である。「ヘーゲルフロイトのあいだに機械の世界が到来した」。現代生物学の出発点もここにある。ビシャは生気論の生命概念と手を切り、生命が死との関係で定義されるべきことを見抜いた。フロイトにおける生物学的思考はエネルギー論に立った心理現象の探究である。 

 

 『心理学草稿』のフロイトは脳をホメオスタシス的なシステムと位置づけようとしたが、夢という暗礁につきあたって挫折し、そこから無意識の発見へと至った。