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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

機械にできないたった一つのこと:『フロイト理論と精神分析技法における自我』第4講

 

 第Ⅳ講(06/12/1954)

 

 「すべてを創ることによって至上の者は何を創るのか――自らを。しかし、すべてを創る前に彼は何を創るのか――私を」(シェプコ)。

 フロイトの「組織立った矛盾」。フロイトの思考の「動き」は完成されることがなく、けっして教義的決定版として定式化されない。

 「フロイトは人間の中に主体の重みと軸を発見した」。主体は個人の経験の総和を越えている。「主体とは、経験の全体を覆い、経験に命を吹き込み、意味をあたえることになる象徴の組織化された体系」

 

 抵抗とは、自らの経験にたいして中心的な位置に自らを位置づけようとする運動である。レヴィ=ストロースは子供の視点を導入して家族を相対化してみせたが、これは分析的経験を個人的・心理的経験へと収斂させてしまう。ラカンがスーパーヴィジョンを担当したある患者は、生まれてくる子供の父性についての疑念からみずからの正嫡性をめぐる空想を抱くようになる。これは幼児の依存的感情への回帰ではなく、みずからが置かれている象徴的関係の受容にかかわっている。分析においてかかわっているのはこうした象徴的次元である。患者がかれの歴史を手探りで認識しようとするとき、かれが「意に反してその全行動を通して表している」のは、患者が無視しているかれじしんの歴史である。「彼の生は彼の体験の問題性によってではなく、彼の運命の問題性によって方向づけられている」。「パロールは主体の無視された部分の鋳型」であり、症状は個人にたいして中心をはずれたこのような次元にある。個人の正常な発達という観念に基づく介入、正常化をめざす介入は、このような次元にとどかない。無意識とは、「自我の知らない、自我によって無視された主体」である。フロイトがこれを der Kern unseres Wesens と述べたように、一次過程は存在論的な次元にある。

 

 意識の幻影的側面はフロイトを「リンゴをまえにした魚のように」途方に暮れさせた。鏡は現実の対象を想像的な空間に位置づける。意識とはこのような鏡像である。人間が絶滅したら、鏡像や水面の反映は残っているだろうか。然り。自動撮影が可能な装置があれば、それは記録できる。人間がいなくても鏡像は存在しうる。そして神の気まぐれによって人間がこの世に戻ってきたら、その鏡像を観察できる。それゆえ意識は自我に属してはいない。このとき自我にたいして脱中心化されている撮影機が主体である。「象徴的世界とは機械の世界である」。機械の連続性が意識の間歇性を補うことで意識現象が成立する。意識は「宇宙的魂」といった実体的ななにものかではない。そのような宗教的な意識観念は無神論的な科学主義の反動として生まれたものである。行動主義もそれと共犯的である。「行動」概念は人間的現実の一つの去勢であり、間主観的関係を消去する。

 

 自我のレベルにおける主体をなぞらえるべき3つの比喩が提示される。(1)15世紀の版画に描かれているような盲人と麻痺者の2人組。盲目な自我の像が麻痺者を背負って歩く。麻痺者は動けないので、盲人の視線をたよりにせざるを得ない。(2)蛇とその視線に射すくめられた(fascination)鳥。(3)機械仕掛けの小動物。ただし、同種の機械を感知することでそれをモデルとして再起動できるものと仮定する。

 麻痺者や前者の機械は、無意識の介入以前にはいまだ誰でもない。じぶんじしんを他のもののうちの一つとして数えることで人間という主体が生まれる。それは機械にとって唯一不可能なことである。