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自我の発生:『フロイト理論および精神分析の技法における自我』(その1)

* Le Séminaire livre II : Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse, Seuil, 1978.

 

 

Ⅰ(17/11/1954) 

 

 自我についてのフロイト的概念は、コペルニクス的転回を画した。フロイト理論の一般心理学への吸収が告発される。「分析というそもそも人間関係の迷妄を覚まし解放するはずの操作と、人間の(現代人の)体験における根本的迷妄との間に[……]共謀ができあがった」。

 「問題は、精神分析が、フロイトによってつかのま開かれたものを捨て去ってしまうのか、あるいは逆にその輪郭を新たに、そして刷新すべく、明らかにしていくのかということにある」。

 

 『メノン』と「発生期の(à l’état naissant)真理の機能」。知の「慣性」のせいで、知は知が知として沈殿しはじめる基となる美徳の中の何ものかを失ってしまう。「知にはそれ自身の意味を見誤らせる傾向がある」。

 ソクラテスとは誰か?「一貫性への要請と結びついた知の概念が出てくるスタイルを、人間の主体性(「新たな世界内存在」)において創始した人」である。かれはアレテーへの道が科学ではないことに気づいていた。

 「一つの領野が知へと開かれるのはこの[脱中心化という]徳に基づいてであるが、この徳自体はその伝達、伝統、形成に関して、その領野の外部にとどまる」。

 

 ソクラテス以降、何が起こったか。自我概念の登場である。それ以後、「われわれはもはや歴史の途上で獲得した自我という領域を用いずに思考することはできない」。

 

 自我の発生を確認するには、プロタゴラスまで遡れば十分である(「私が来ました」ではなく「プロタゴラスが来ました」)。この台詞が照明のない場所で発されたものであることにラカンは注意を促す(自我とはイメージである)。

 

 「歯科医」はデカルト的コギト(「新しい主体性」)を反省行為に、つまり意識の自らへの透明性に帰すが、「私」は意識にとって透明でない。「私」であろうと他の対象と同じ与えられ方をする。

 

 自我機能とは、「不死性の属性をまとった実体としての魂の宗教的概念に含まれる実体論」の存続であり、ロック、カント以来の哲学はそれを批判してきた。ソクラテスの時代にも自我があり、何らかの自我が「中心」「基礎」にあった。フロイトはそれをランボー的に脱中心化した。

 

 フロイトは無意識に一つの思考を帰す。人間が自らを自分と認める根拠となる「確信」を越えたところに「私」の資格をもつ何かが存在するのだ。ぎゃくにフロイトにとっては意識の間歇性こそ位置づけがたいなにものかである。

 

 人間の主体は動物における適応とは異なる。人間にあって「主体は個人に対して中心をはずれている」「私とは一個の他者である」。

 

 ラ・ロシュフーコー的な自己愛(amour-propre)とは、たんに利他行為の偽善性を述べたものではない。「私心のない行為をすることで、われわれは直接的な快から解放され、高次元の善を探究していると思い込み、みずからを誤解する」ことにたいする警告である。

 

 「快原則の彼岸」においてフロイトが直面した分析技法の危機。「彼岸」が『集団心理学』『自我とエス』に先だって書かれたのはなぜか。