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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「存在」のピラミッド:『フロイトの技法論』(了)

 

XXI(30/07/1954)

 

 「真理は記号の外側に、記号とは別のところにある」。「真理として現れない誤りはない」。「誤りこそが真理の具現化した通常の姿」。「真理はすべて暴かれることはない」がゆえに「誤りというかたちで伝えられるというのが真理の本性である」。これこそ「存在それ自体の開示を構成する構造」である。

 

 つまり、人間の言説は統一的なものではなく「裂け目、断層、裂壊」を含むので、パロールは必然的に誤り、その誤りにおいて真理が示される。無意識は矛盾律を逃れるというフロイトの指摘はそのような意味で解されるべきである。「アウグスティヌスに比べてのフロイトの新しさは、言説の主体を越えたあるパロールが主体の体験局面には出現するということを現象の中に発見したこと」であり、「このパロールは存在の病んだ部分にまさに現れる」。

 

 「シニョレッリ」、「植物学研究書の夢」、若い頃苦労した詩人の夢への参照がなされる。

 

 ついで六面体の図が示され、転移の構造が説明される。二つのピラミッドが接する面が現実界であるとされる。現実界象徴界想像界のどれ一つ欠けてもピラミッドが建たない。ピラミッドの各稜線に基本的な三つの情熱が位置づけられる。象徴界想像界の交点には「愛」、想像界現実界の交点には「憎悪」、現実界象徴界の交点には「無知」。分析におけるパロールの進展につれて、「抑圧」「圧縮」「否定」というピラミッドが立ち上がり、「存在」が実現する。

 

 

XXII(07/07/1954)

 

 質疑応答の過程でこれまでに扱われたさまざまなトピックが振り返られる。

 

 真理の探究におけるパロールの構造化の三段階を寓意的に表現するなら、「誤りは欺瞞の中へ逃げ、取り違え(méprise)によってふたたび捕えられる」となる。

 

 情動的なものと知性的なものとを対置するなかれ。知性的なものはエゴのレベルにある。

 科学における進歩は思考能力の進歩ではなく記号の発見によってなされる。すなわち人間の進歩とは象徴的次元における進歩である。

 

 情念(受動 passion)としての愛と能動的な贈与としての愛を区別しなければならない。後者は想像的な囚われの彼岸に主体の存在(その特異性)を愛そうとする(デカルト)。

 

 現代人は戦争によって憎悪を十分に実現できない。その結果、「われわれの文明自体が憎しみの一種である」。

 

 分析家のポジションは「教えるという無知(ignorantia docens)」ではなく、「無知であることを知っている知(ignorantia docta)」である。

 

 最後に「分析のシェマ」が示され、転移が「分析の時間」であることが確認される。