lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

概念と時間:『フロイトの技法論』第19〜20講

 

XIX(16/06/1954)

 

 「意味作用は意味作用そのものへしか、つまり他の意味作用にしかけっして回付されない」。

 キルケーによって豚に変身させられたオデュッセウスの部下のエピソードが召喚され、「豚の鳴き声がパロールになるのは、その鳴き声が何を信じさせようとしているのだろうかという問いを誰かが立てる時だけだ。パロールは、誰かがそれをパロールと信じるかぎりにおいてパロールなのだ」。パロールはそれが指し示すべきもの以前に存在する「幻影」である。じぶんたちがまだ人間なのだという再認を要求するかぎりで、機械的な豚の鳴き声がパロールになる。

 あらゆるパロールは「さまざまな意味を内包している」。言説の意味は、その背後に別の意味を隠しており、その別の意味の背後にもさらに別の意味がある。「パロールはそのあらゆる意味の反響(résonance)を創り出す」。

 ヘーゲルによれば、象を「象」と名づけることによって、そこに象が存在する。「概念とは、そこにまったく存在していないのに、ものを存在させるようにさせるもの」。象と「象」との「差異における同一性」が「存在」をうみだす。そのいみで、「概念とはものの時間である」。フロイトは「無意識は時間の外に位置している」と述べているが、これは「無意識がそれ自体時間、すなわちものの純粋な時間である」かぎりにおいてそのように言えるのだ。「無意識はものをひとつの転調において再生産する」のであり、「どんなものでもその転調の物質的な支えであり得る」。転移とはそのような時間化であり、転調である。時間という一つの形態に投げ込まれることによって「空虚なパロール」が「充実したパロール」となる。かくして「パロールの秩序を構成する次元は時間という要素である」。「転移の分析において重要なことは、どの時点でパロールが充実したものになるかを知ることである」。

 ここでラカンは、転移が象徴的な次元にあることの傍証とすべく、フロイトにおける Übertragung という術語の最初の用例に遡る。『夢解釈』第七章においてフロイトは、抑圧された欲望は言葉にならない部分を含んでおり、直接的翻訳(言説化)が不可能であるために、「日中残滓物という音素、アルファベット」を使ってみずからを象徴化するとし、その過程を表すために「転移」という語を用いているのだ。

 ラカンはこの過程をマイモニデスのエクリチュールに重ね合わせる。『不決断者の手引き』においてマイモニデスは、「言おうとしながらも言葉に言い表し得ないものが現れてくるように言説を組み立て」、「いっしゅの混乱、破綻、意図的な不調和によって、語ることのできないもの、あるいは語られるべきではないことを語っている」。

 

 

XX(23/06/1954)

 

 「すべての意味素はつねにさまざまな意味をもっている」。「ある用語の意味作用は、その用語の可能な用法の集合によって定義しなければならない」。

 アウグスティヌス『師について』中の「パロールの意味内容について」のパートについてのベルネール神父の発表があり、そこにおいて「シニフィアン」概念が先取りされていることが確認される。とはいえ、アウグスティヌスは、パロールが真理として機能するものの、真理をその都度創り出すのがパロール自身であることを忘れ、パロールと真理一般(神)の範疇と性急に結びつけてしまう。