lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

言語の存在論:『フロイトの技法論』第18講

 

XVIII(09/06/1954)

 

 倒錯とは何か? 

 倒錯とは、スピノザのいう人間的受苦(passion humaine)を純粋化する経験、つまり、「想像的な鏡像関係を構造化する自分自身との分割」へと開かれるという経験である。この「分割」「裂け目」ゆえに、人間の欲望は他者の欲望にさらされている。

 たとえば、プルーストにおける同性愛。他者の欲望と主体自身の欲望のたえまのない追いかけっこ(「シーソー」)であるアルベルティーヌへの嫉妬は、想像的な間主観性の一形態である。そして「倒錯的欲望を支えている間主観的関係は、他者の欲望の根絶か、あるいは主体の欲望の根絶かによってしか維持されえない」。「倒錯的欲望は生命のない対象という理想によって支えられている」ので、じぶんか相手のいずれかがそのような対象に貶められなければならない。「この理想が実現されるまさにその瞬間にこの欲望は対象を失う」。言い換えれば、「抱擁以前に欲望の喪失か対象の喪失という形で実現されるしかない」。ここにおける「対象が消えるか欲望が消えるかという二つの奈落によって構造化された死を賭けた関係」が主人と奴隷の弁証法へと、そして欲望の消失という主題がジョーンズ的なアファニシスの概念へと送り返される。

 ヘーゲルは主人と奴隷の弁証法において、人間同士の繋がりを闘争と労働の関係に純粋化した。間主観的関係によって規定される人間の社会は、対象化可能ないなかる繋がりにも基づいていないという点において「動物の社会」から区別される。そして主人と奴隷の神話的な弁証法は、象徴的なものの領野によってすでに枠づけられている。

 ふたたびサルトル的なまなざしの弁証法が参照される。戦場においては見えざる敵のまなざしから隠れることが問題になる。そのかぎりで「問題は、私がどこにいるかを他者が見ていることではなく、[……]私がどこにいないかを他者が見ていることである」。そのいみで「間主観性的関係を構造化するものはそこにないものである」。ここでゲーム理論への参照が促される。ゲーム理論は数学的理論であり、したがって象徴的なレベルにある。しかるにサルトル間主観的関係の多数性を認めながらも、この多数性を二者関係のうちに押し込めている。

 余談として、言語の起源を扱った本が紹介され、言語の起源を思考の進歩に帰す発想が退けられる。「人間的思考の構造そのものである象徴がまず始めにある」。思考とは、現実的な象を「象」という語に置き換えることであるが、動物にはこの過程で飛び越えられる「深淵」がない。

 ついでバリントの『感情転移について』が俎上に上せられる。バリントによれば、転移とは患者の内部にある感情を生命のない対象へと「置き換え」、「象徴化」することである。バリント象徴界現実界との閉じた回路を想定し、「象徴」を存在するものの「置き換え」ととらえているが、ラカンによれば、パロールとは「現実の中に嘘というものを設立する」。パロールは「存在しないものを導き入れる」のであり、それゆえに「存在するものをも導き入れることができる」。「パロール以前には何も『存在』しない」。パロールによって「現実的なものに穴が穿たれ、存在自体の裂け目が開かれる」。そもそも「存在」という言葉自体がパロールという領域にしかないのであってみれば、「存在」は把握不可能である。「パロールは現実的なものという布置の中に存在という窪みを導入する」。ラカンはそのような「存在」をアンゲルス・シレシウス的な「本質」に送り返す。「人間よ、本質となれ、なぜなら世界が朽ち果てるとき、偶然は失われ、本質が残る」(シレシウス)。そしてシレシウスのこの定言命令が、フロイトの定言命令 Wo Es war, soll Ich werden. に送り返され、セミネールは佳境に差しかかる。

 ラカンが言いたいのは、「転移はその全体が象徴的関係の中に位置している」ということだ。