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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

サルトルを読め!:『フロイトの技法論』XVII章

 

XVII(02/06/1954)

 

 母子関係には「裂け目」がない(バリント)。この定義はフロイト的な自体愛の段階を否定している。ウィーン学派は幼児には「対象」が存在しないとするが、経験的にそうでないことは明らかである。対象の概念を、生物と環界との関係という現実的なもののレベルで考えるべきではない。バリントにとって対象とは「一次的愛」を充足させるものである。バリントにあっては、一次的愛と対になる性器的愛も充足というモデルによって理解されている。性器的愛において充足すべき他者の欲求を感知する能力をバリントは前性器的なものに求めるが、そのとたん、閉じたシステムとしての一次的愛の定義に矛盾が生じ、バリントの理論は破綻する。バリントは動物的な必要性(need)と人間的な欲望(wish)を区別していない。

 精神分析は子供が多形倒錯者であることを発見した。倒錯の構造は間主観的な関係によって支えられているので、バリント的な[生命のない]対象概念は適用できない。たとえばサディズム的関係はパートナーの同意を前提としている。サディズムのゲーム的な性格をサルトルは見事に見抜いている。サルトルは『存在と無』第二部の”他者理解の現象学”において、まなざしによって惹き起こされる感情が間主観的なものであることを示している(「私は他者が私を見るのを見る」)。またサルトルによれば、愛においては、愛されたいと欲している対象には完全な自由が委ねられてはならない。愛においては、相手の身体が相手の自由を制限しているように、私が相手の自由を制限する対象になりたいと欲する(つまり、私が相手にとって生命のない対象となることはない)。というわけで、バリント的な性器的愛は象徴界想像界の境界になければならない。間主観性を後発的なものとしてではなく始源に前提しなければならない。

 「倒錯とは、裂け目、裂開という人間的本性の実存的可能性の特権的な探索である。その裂け目を通して象徴という自然を越えた世界が入り込むことができる」。バリントが子供は自分の欲求との関連でなければ他者を再認しないと考えたのは誤りだ。<Fort/Da>の遊戯において[現実的]対象は重要ではないというバリントの洞察は正しいが、バリントはこの遊戯がランガージュであることを見抜いていない。「間主観性は象徴的な操作ということによってまず始めにあたえられている」。「子供にとってはまず象徴的なものと現実的なものがある」。想像的なものはこの二つの極から生まれる。