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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

個人的な法としての超自我:『フロイトの技法論』XV〜XVI章

 

XV(19/05/1954)

 

 狼男に即して、外傷の想像的「刻印」(Prägung)の事後的な抑圧によって過去が「象徴」「歴史」へと再統合されるプロセスが確認される。抑圧と抑圧されたものの回帰は同じだから、この過程は分析において生じていることと並行的である。

 

 ハイデガー風に言えば、「存在がパロールへと住み込むようになるすべての入り口には、忘却という余白、すべての<アレーテイア(真理)>を補足する<レーテー(忘却)>がある」。

 

 ハイデガーは「存在の源へと遡るべし」という「哲学的掟」を定めた。では、精神分析はどのていど存在の源へと遡るべきなのか。

 

 分析の終了をエゴの「強化=教化(learning)」にもとめたバリントらは、エゴと主体とを混同している。

 

 話す主体は嘘をつくことができるので、科学によって対象化できない。そのいみで主体とは「対象化の発展の中で対象の外にあるもの」である。「人間主体の中には話す何かがある」ことをフロイトは無意識の中に発見し、「主体という次元の再統合」を行った。

 

 ところで、主体がその歴史を象徴的に統合する過程には超自我が作用する。フロイトは当初、超自我に検閲という機能を帰した。検閲とは、「主体の象徴的世界を分割する審級、すなわち受け入れられ再認された部分と、受け入れられず禁止された部分との二つに分割する審級」のことである。

 

 コーランの教えに反抗的なイスラム教徒の患者においては、コーランのうち、盗みを犯した者は「手を切られるべし」というコーランの条文だけが手の症状として受け入れられ、他の原始的で秘教的な部分は捨て去られた。

 

 「すべての人間存在にとって、その人にふりかかるすべての個人的なことは、その人が結びついている掟への関係づけの中でこそ位置づけられる。誰にとっても同じというわけではないそれぞれの人の生活史は掟によって、すなわち掟の象徴的宇宙によって統一されている」。

 

 「掟の中の不調和な知られざる条文、掟を受け入れることも統合することもできない性質を帯びた先端にしてしまう外傷的出来事によって前面へと押し出された条文、これが一般にわれわれが超自我という用語で定義している盲目的で反復的な審級なのだ」。

 

 ところで「エディプス複合は文化の現段階において西洋文明の中で特権的な位置を占めている」。「われわれの文化圏においては掟という領域がさまざまな平面に分割されている」が、「精神分析が問題とする昔の出来事がいかに多様で玉虫色のものであろうと、分析的な解決はすべてエディプス複合と呼ばれる法的な、つまり法へと従わせるこの座標のまわりに結局は結びつけられる」。

 

 「ある一つの文明の中の様々なランガージュがより複雑になるにつれて、より原始的な掟の形態と個人との繋がりはエディプス複合と呼ばれる本質的な点へ還元される。エディプス複合は個人の生活の中で掟の領域で鳴り響いているものだ。それはもっとも不変な交叉点、最小限要求され得る交叉点である」。

 

 ここで述べられていることを要約するならば、以下のようになろうか。超自我とは個人的な法(掟)であり、人は自分がしたがっているその掟を知らない。いわばこの状況がエディプス複合の謂いであり、したがってエディプス複合の様態は無限にある。価値観の多様化は、エディプス複合を無効化したのではなく、より純粋化する。エディプス複合に代わる枠組みを「行動」「適応」「グループモラル」といったものに求めようとしてもむだである。

 

 

XVI(26/05/1954)

 この日の講義はバリントの『一次的愛と精神分析技法』に関するグラノフの発表にあてられる。グラノフによれば、バリント説は規範的道徳的な愛の学説に基づいている。バリントが「正常」と見なす状態が自然的なものか、人工的で偶然的なものかが問われなければならない。バリントによれば、1938年~1940年頃に精神分析にピューリタニズムが蔓延し、リビドー的な語彙が消えて対象関係論へのパラダイム転換が起こる。ラカンによれば、バリント的な対象関係論における対象の絶対化は現実的なものにとらわれており、象徴的なものへの視点を欠落させている。