lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

リビドー理論のパラドクス:『フロイトの技法論』IX〜X章

 

IX(17/03/1954)

 「他者に充実した仕方で語るごとに転移がある」。従来、想像的なレベルでの現象であり、分析の障害であると見なされてきた転移がパロールとの関係においてこそ定義されるべきことを確認すべく、ラカンは『ナルシシズムの導入のために』についての発表をルクレールに委ねる。

 リビドー理論のパラドクスを解決するために、ユングは「内向」概念によってそれを普遍化した。フロイトはそれに対抗して自我リビドーと性リビドーを区別し、ナルシシズムを後発的な過程と規定して原初的自体愛(『性理論のための三篇』)から区別した。ラカン鏡像段階をこうしたナルシシズムの観念によって規定する。自我とは後発的なものである。

 ユング的な一元論によっては、隠者の昇華と統合失調症との区別も説明できない。神経症者は現実的なものの代わりに想像的なものを置くが、精神病者はそのかぎりではない。精神病者は象徴的なもの(語)に備給する。「象徴的な非現実、あるいは非現実性を帯びた象徴的なもののなかにこそ精神病者に固有の構造が位置している」。ユングは象徴的なものと想像的なものを混同している。

 最後に、統合失調症の主体という問題に関して、「夢の原理へのメタ心理学的補遺」への参照が促される。

 

X(24/03/1954)

 フロイトにとってリビドーは、一連の症状における性的機能の変遷を表象するという限定的な目的を担った「操作的」な概念であり、ユングにおけるような、一切の心的現象の原理となる何らかのエネルギーといった包括主義的な概念ではない。

 「ナルシシズム」論文の時期におけるフロイトの課題は「精神病の構造」であり、精神病をリビドー理論によっていかに説明するかということであった。一元論ユングは、精神病者にとっては神経症者よりもリビドーが「内向」しているだけであるとし、精神病と神経症を連続的なものとして捉えた。

 フロイトは欲動理論を神話と見なし、過渡的な物理学的諸概念と同様、限定的な価値しかもたないとした。リビドー理論が依拠していたのは当時の生物学であり、ヴァイスマンによる「種」と「個体」のパラドクスについての理論である。現代の動物行動学によれば、性的活動を促すのは性的パートナーの「イメージ」であり、これは「個体」よりもむしろ「種」に属するものである。つまり、自我欲動と対置されるかぎりでの性欲動はイメージへの備給であると説明できる。ここでラカンは、『夢解釈』第七章においてフロイトが写真機のメタファーを用いて心的諸審級をイメージに帰していることを想起させ、ついでくだんの花束の装置に立ち戻る(イメージをイメージたらしめるのはその統一性である)。動物もまたイメージに備給するが、動物においては必要性と関心とが予め対応している。一方、人間においては鏡像が「ノエシス的可能性」を生み出し、別の他者たち(理想自我)へのナルシシズム的同一化が引き続いて起こる。自我は現実の構造化と像の中への疎外とを同時に引き起こす。

 このあと、グラノフの質問を受けて二つの愛の区別(エロスとアガペー)への言及があり、最後に、フロイトフェレンツィによる発達段階論の影響(「間違った進化論」)から最終的には脱し、各段階においてすべての段階が保存されているという構造論的ヴィジョンに到達したと述べられる。