lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

狼少年たちに花束を:『フロイトの技法論』V~VIII章

 

V(10/02/1954)

 この日の講義はジャン・イッポリットの発表に時間が割かれる。『エクリ』所収論文「フロイトの《否定》にかんするジャン・イッポリットの見解への序と回答」はこれを受けたもの。

 否定(Verneinung)とは、判断における否定というより、前言の撤回である。抑圧の代理としての死刑宣告である。フロイトははっきりそう述べていないが、知性と情動の分離という契機が重要である。また、否定は破壊本能の後裔(Nachfolge)でもある。そして破壊本能も快原則に依存している。欲動混合という概念に関して、仏訳の不備が指摘される。「否」は、快原則の強迫(Zwang)からの独立である。抑圧によって「宙吊り」が起き、「思考」という余地ができる……。

 狼男においては性器的な段階の「肯定」がなかったので、象徴的次元にそれにかんして何も出現しない。皮一枚でつながっている小指というイメージは、「原始的現実界、象徴化されざる現実界」、「直接的な外的世界」であり、承認されなかったものが「見られたもの」(vu)というかたちの下に意識に侵入したもの。既視感という現象もこれに関係しており、ふつうの回想というよりプラトン的想起に近い。

 

Ⅵ(17/02/1954)

 「言説の分析と自我の分析」というタイトルが掲げられ、「素材の分析」と「抵抗の分析」という「古典的対立」に対置される。アンナ・フロイト「自我と防衛」によれば、分析において自我は防衛として現れる。アンナ・フロイトは、分析を患者の自我と分析家の自我の双数的関係とみなしている。患者の攻撃性は分析家への攻撃性であるとみなされ、患者と母親の関係が転移において「再現」されているのだとみなされている。

 ついでメラニー・クラインがアンナ・フロイトの「主知主義」に対置され、ジェリニエ女史によるクライン「自我の発達における象徴形成の重要性」にかんする長い発表がある。クラインにおける肛門サディズム期から象徴期への移行のヴィジョンに照らして鏡像段階論を吟味しようというのがラカンの目論見のようだ。

 症例ディックにおいては、「純粋で構成されていない現実」が象徴化されていない。対象への同一化に伴う不安がディックには欠けている。ディックは「非人間的世界」に生きており、「現実に直面し現実の中に生きている」。ディックにとっては他者も自我もなく、現実だけがある。一連の対象への想像的な同一化がなく、現実に固定されている。「空っぽのもの」「暗いもの」というかたちでしか象徴化されていない現実がある。ディックにとっての人間的なものはこの「裂け目」のみである。これが暗に狼男における性器愛の象徴化の「排除」に送り返される。

 

VII(24/02/1954)

 地質学、ついで光学への参照が促され、鏡像段階論を装置化した「倒立した花束」という「モデル」が紹介される。この装置においては、歪んだ鏡を見る者の身体(箱)の上で、花瓶の実像(「容器」)が花束の虚像(「内容」)によって満たされる。これが鏡像段階における統合的な自己イメージの獲得を表している。

 ついでこの装置によってふたたびディック症例がコメントされる。クラインによれば、子供の世界は母親の身体という「容器」とその「内容」からなる。ディックにとっては母親の身体という「容器」とその「内容」となる対象が一致しておらず、対象は「暗い場所」としかイメージされていない。くだんの装置に即して言えば、ディックにおいては花瓶と花束とが一つの像を結んでいない。クラインは汽車の収まるべき「駅」が「母親」であるとの解釈の投与によってディックにコミュニケーション能力をもたらすが、その成果が[エディプス的な]解釈の正しさによってではなく、「内容」と「容器」の関係を象徴化することによってもたらされたことに気づいていない。神話学を参照すれば明らかなとおり、エディプス複合は普遍的な機制などではあり得ない。クラインには想像的なものについての理論がなく、想像的なものと現実的なものとを区別していない。

 

 

VIII(10/03/1954)

 ラカンはロジーヌ・ルフォールによる症例ロベールを召喚し、ディック症例についての自説の正しさを証明しようとする。超自我が「掟であると同時に掟の破壊」であると定義される。