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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

フロイトの人間的(人道的?)介入主義:『フロイトの技法論』(2)

Le séminaire Livre I : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975) 

 

■1954年1月27日の講義

 

 主体による無意識の真の現実の再征服のためには、方法や概念的範疇の形式的なカタログは役に立たない。

 

 自我は技法的必要性に結びついた機能的役割をもつ。

 

 フロイトの介入主義は「人間的」である。

 

 分析的治療の独創性は、主体の主体じしんとの問題含みな関係という観念にある。

 

 症状の「意味」は、[客観的に]顕現するのではなく、主体によって引き受けられるべきものである。それは人格の尊重にかかわることである。人格の尊重は精神分析の条件である。

 

 では分析の技法はいかにして介入するのか。患者の歴史を重視しない hic et nunc な状況に分析を限定することは、分析を患者の自我と分析家の自我との関係(d'ego à ego)もしくは対等な(d’égal à égal)関係に還元する危険をともなう。分析家の解釈は、みずからの感情の投影と化す(逆転移)。とはいえ問題は逆転移を避けることではなく、それを適切に利用することだ。第三項の介入がひつようである。

 

 「作業の継続を妨害するものはすべて抵抗である」(『夢解釈』7章)。「作業」(Arbeit)であって「治癒」(Behandlung)ではない。「作業」とは無意識の顕現に関わる。

 

 初期の『ヒステリー研究』においては、「抵抗」が自我に由来するとはされていない。中期の論文「抑圧」においては、抵抗は意識的なものの側に帰されるが、[その区別よりも]原初的に抑圧されたものとの関係(「距離」)が強調されている。抑圧されたものとは過去である。同じ中期の狼男症例においては、外傷という主題のもとにこの過去を考察している。外傷は歴史とその「承認」との弁証法によって規定される。

 

 『ヒステリー研究』によれば、抵抗とはディスクールが病原的核に接近するとき、ディスクールを押し戻すべく生じる屈折(inflextion)である。それゆえ抵抗の問題は、ディスクールなるものの意味を問わなければ解明しえない。それは「歴史的ディスクール」である。そしてディスクールは主体に関わる。ディスクールの主体とはなんであろうか。

 

 この日の講義ではマノーニとアンジューが前座をつとめている。かれらの報告とディスカッションとは Seuil 版ではカットされているが、web上で公開されている保科正章氏による試訳ではしっかり訳出されている。