lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

死をよぶカルテット:「神経症者の個人的神話」(3)

*「神経症者の個人的神話」(承前 

 

 このシナリオは、父親と母親と[父親の]友人という原-関係(かならずしも事実として証明できない)を反映している。

 

 このシナリオに神話としての性格を付与するものはなにか。このシナリオが、隠されたものとしての原初的な関係を再現する儀式を演出しているという事実ではかならずしもなく、シナリオが原初的な関係の諸項を入れ替えることで父親のストーリーを反復していることである(友人への負債が裕福な女性への負債へ、さらには貧しい女性への負債へと置き換えられている)。

 

 実現不可能な返済のシナリオを編み上げることで、患者は返済不可能性という父親の状況を反復し、父親の負債を引き受けている。それは金を着服したこと(「父の去勢」)とその金を立て替えた友人への借金を返済していないこと(「社会的責任」)との「二重の負債」である。負債が二つの平面に同時に位置することで、通常の神経症の構造である三項関係が「複視」(diplopie)を起こしている。ようするに父なるものが担う男性的機能と社会的機能とが分裂している。患者の神経症の原因はこの二つの平面を一致させることができないことである。

 

 患者は男性的機能の引き受けにおいて「みずからの自我の確認(actes)の疎外された証人」と化し(「内的分裂」)、自我とのあいだに「自己愛的二重化」というべき状況を生きる。同時に享楽をもたらすべき性的対象も二重化(貧しい女性/裕福な女性)し、四角関係(situation de quatuor)が形成される。

 

 つづけてラカンは「鼠男」を『詩と真実』に描かれたゲーテの生涯で「もっとも謎めいた」一挿話に送り返す。

 

 妹との接吻を目撃したルシンデの投げた呪いが若きゲーテに課した性的禁止がフレデリックによって解かれたエピソードである。

 

 詳細は端折るが、ゲーテの扮装(神学生、宿屋の小僧)において問題になっているのもやはり「人格的機能の二重化」「主体の二重化」である。

 

 いずれにしても、くだんの四項構造ゆえ「エディプス的図式の全体が批判されねばならない」。

 

 「現代人の主体」の、夫婦を中心とする縮小された家族形態においては、父は、他の諸文化においてはきわめて本質的な、母性愛に基づく自然的紐帯のもたらす平和的享楽をもふくめた象徴的機能の代表者である。

 

 父の機能はたんなる「父の名」にとどまらず、現実界象徴界によって覆い尽くすものであるが、この覆い尽くしは「絶対的にとらえどころがない」。すくなくともわれわれの社会のような社会構造にあっては、父は多少とも父の機能と一致しない(discordant)父、欠損のある(carent)父、「辱められた父」(クローデル)である。この乖離ゆえにエディプス複合は規範的なものであるよりも病因的なものである。

 

 この四項関係に読みとるべきはまた自己愛的関係である。自我とはみずからの内にありつつ主体がみずからとは異質の、より完璧な他人として認識するだれかのことである。主体はみずからの実現にたいして先取りされた関係をむすぶ。この関係が主体を原初的な亀裂(fêlure)、孤独(déréliciton)(ハイデガー)のうちになげいれる。神経症者は人間の条件の構成要素である想像的関係における死の経験に典型的にさらされている。 

 

 想像的父と象徴的父の乖離は構造的なものであるのみならず、各々の主体に特殊な歴史的、偶然的なものでもある。神経症者においては、現実生活のなんらかの偶発事によって父の人物像が二重化している。父の早期の死による義父との兄弟的競合関係であれ、あるいは逆に母の早期の死と義母との関係であれ、兄弟的な人物が象徴的な殺意を現実的なレベルで受肉するケースであれ。そしてきわめてよく見受けられるのが、「鼠男」の家族的神話におけるような、会ったこともなければ消息もつかめない謎めいた「友人」の存在である。

 

 四番目の要素とはいったいなにか。死である。フロイト以前にヘーゲルは第三の要素として媒介者としての死を導入していた。この四番目の要素、自己愛的な関係における想像的な死、想像された死は、ヘーゲルが知らないでいたものである。エディプス的劇の弁証法においてはたらいているのもこの同じ要素である。それは神経症の病因となるのみならず、それをはるかにこえたもの、すなわち「現代人に特徴的な実存的態度」を生み出しているものかもしれない。

 

 さいごはふたたびゲーテフロイト思想の源泉でもある)に戻り、その臨終の言葉が引かれる。<< Mehr Licht. >>