lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

精神分析にとって神話とはなにか?:「神経症者の個人的神話」(1)

*「神経症者の個人的神話」(Le mythe individuel du névrosé, 1953)

 

 セミネール0巻の「鼠男」論。現在では Seuil 社からジャック=アラン・ミレールの編になる叢書 Paradoxes de Lacan 中の一冊として刊行されている(2007年)。以下は冒頭部分のラフなレジュメ。

 

 精神分析は科学ではなくたんなる術(art)であるとみなされている。art をたんなる技法や操作ではなく、中世のリベラル・アーツといういみでの art ととれば、そのとおりである。

 

 リベラル・アーツをそこから生まれた科学から区別するものはなにか。人間の測度(mesure)への根本的な関係を維持していることである。精神分析は、人間のじぶんじしんにたいする測度への関係を継承していることにおいて、こんにちにおいてリベラル・アーツになぞらえるべき唯一の学問である。ことば(パロール)の使用こそが、すぐれて人間の人間にたいするこのような内的関係をうちたてる。

 

 それゆえに精神分析的経験は完全な客観化が不可能である。精神分析の経験のさなかには、言われ得ないある真理がつねに現れる。なぜなら、この経験を構成するのはことばであり、ことばそのものをことばによって解き明かすことはできないからだ。

 

 人間という対象にはたらきかける手段を客観化する方法が精神分析から導き出される。しかし、この方法は、くみつくしえない間主観的関係によって構成されるかぎりでの精神分析という根本的な art から引き出される技法にほかならない。この関係がわれわれを人間たらしめているのであるから。そしてその本質を伝える表現は神話というかたちをとる。

 

 神話は真理の定義において伝達ことのできないものにディスクールとしての表現をあたえる。なぜなら真理の定義はそれじたいにしか基づき得ないからであり、真理の定義は、ことばがくりひろげられるにしたがって構成されるものであるから。ことばはそれじたいを客観的真理としてとらえることができないし、真理へとちかづく運動をも客観的真理としてとらえることができない。ことばは真理を神話的に表現することができるだけである。このいみで、分析理論が間主観的関係を具体化する手段、すなわちエディプス複合は一個の神話としての価値をもつのである。