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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

料理人としての精神分析家:セミネール『フロイトの技法論』(1)

Le Séminaire livre1 : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975)

 

 

 *セミネールの開講(1953年11月18日の講義) 

 

 子弟みずからが答えをみつけること。精神分析と禅との並行性がほのめかされる。

 

 フロイトの教えはあらゆる体系を拒否し、運動途上の思考を発見する。

 

 フロイトの思考はつねに訂正に開かれている。

 

 古びた術語のカタログではない。各々の観念がそれじしんの生を生きている。

 

 弁証法的である。ある術語において問われたことに別の術語によって答えをあたえていたりもする。ある術語はそのコンテクストにおいて理解されてはじめてその価値がわかる。

 

 フロイトは科学主義の時代に生きた。『夢解釈』において「意味」という、具体的な心理的密度をもつ、別種のものが導入された。

 

 夢のなかになにごとかを読み取るという行き方そのものは古めかしい。因果的説明に回帰している。夢の「意味」において問われているのは、その欲望において、環境への、他者たちへの、他者への関係において、主体の主体性をとらえることだ。 

 

 われわれの課題は「意味」の領域を再導入することだ。

 

 ブリュッケ、ヘルムホルツら科学主義者たちはすべてを物理的な諸力に還元した。フロイトはじぶんじしんに起きていることを重視した(かれの幼年時代、神経症、夢)。われわれだれもがそうであるように、さまざまな偶然(死、女性、父)のさなかにある人間としてのじぶんに。

 

 精神分析家は料理人であり、概念は包丁である。料理人が動物の関節に応じた最適の包丁の入れ方をわきまえているように、人間のこころも、その構造に応じた概念化がひつようとされる。あまりの複雑さに根を上げて、原子論(画一化)にたよろうとする。これがまちがいのもとだ。概念は言葉によってできていて、事物の輪郭線を描くためのものだ。それゆえ科学は言語活動にからめとられてしまう。(包丁に素材がからみつくイメージであろうか。)

 

 フィロギストンから酸素へ、のように改善されることもある。象徴はそのときどきの日常言語によって表現される。フロイトは事実だけを凝視することで「悪しき言語活動」にからめとられることを避けようとした。

 

 主体の概念を導入することは、じぶんじしんを導きいれることだ。あなたに話しかける人は「悪しき言語活動」をつかって話す。問いに付されているのはじぶんじしんだ。それゆえフロイトは自己分析の必要性を説いているのだ。

 

 逆転移[初出]において問題になっているのは、分析の場には二人の人間がいるということだ。

 現象学的にみて、分析状況はひとつの構造である。この構造に照らしてはじめてとりだすことのできるいくつかの現象がある。じぶんじしんを理解することができるという考えを人々にあたえるのもやはりひとつの構造である。それは主体性の構造である。

 

 ジュールダン氏のように、われわれは意味、誤解、無意味をうみだす。それでもそこに何本かの構造を見出さねばならない。ユングもまた夢や宗教の象徴のなかにいくつかの元型を再発見している。それもまた構造である。とはいえ分析的構造とは別のものだ。

 

 フロイトはこの構造に固有の決定論を導入する。そこからフロイトの著作の随所にみられるあいまいさが由来する。たとえば、夢は欲望なのか、それとも欲望の承認なのか?

 

 分析家は会話術の技法にしたがう。すぐれた料理人のように、分析家はどのような関節や抵抗に出会うかを知るひつようがある。

 

 super-ego はひとつの法であり、その法は意味を欠いてはいるが、もっぱら言語活動によって支えられている。合意への努力は言語活動に固有のコミュニケーションである。「おまえは右に曲がれ」の「おまえ」はあまりに根本的なので意識に先立つ(命令法から主語が省かれること)。意図的な検閲は意識の先回りをする。「おまえ」は信号ではなく、相手への参照である。それは秩序であり、愛である。

 

 同じく、自我理想は……

 

 エスは……

 

 おまえはこれだ。これが実存的承認の弁証法の究極の地点であり、実際にはけっして到達されない。

 

 人間の実存への、「意味」の領域への、決定の秩序を導入することが「理性」と呼ばれる。フロイトの発見は、開拓されていない地における理性の発見である。

 

 

 

*1954年1月13日の講義 

 

 抵抗、転移、転移への介入、転移神経症。

 

 中間的な時期(1904~1909にはじまる)。フロイトの萌芽的経験。構造理論。『ヒステリー研究』以来、フロイト技法について語りつづけているが、文化論的、人類学的著作の時期から技法への言及がなくなる。

 

 「じぶんの」ハンマー。

 

 フロイトの人格の苦しむ性質。権威の必要性。

 

 現在の技法的混乱。

 

 two-body psychology(対象関係、逆転移、空想)は分析家と患者の想像的な関係を前提している。two-body にパロールを追加する必要。

 

 フロイトにとって、精神分析の本質、根本、固有の次元は、主体によるかれの歴史の再統合が、ぎりぎりの感覚的な限界に至るまで、個人の限界を越える次元にいたるまでにおよぶこと。

 

 歴史は過去ではない。現在において歴史化されるかぎりでの過去だ。過去の再構成には技法が関与する。それは人間主体の実現における「時間」の機能にもとづく。フロイトは徐々に分析の現在を重視するようになる。「分析における構築」は過去の再構成についてのフロイトの最終的な見解。重要なのは主体が過去を生きなおしたり、想起したりすることよりも、再構成することだ。夢もまた想起である。遮蔽記憶もれっきとした過去の代理物(représantant)であり、「等価物」である。現在の意識における暗号を読解することが重要なのだ。それはパロールによってもたらされる。重要なのは想起ではなく歴史の再記述である。フロイトは最後までそう言い続けた。

 

 たいして精神分析を「世界の空想的理解の主体によるホメオパシー的な排出」とみなす者がいる。それが分析の場で「現実的なもの」(le réel)に変わるとしている。

 この歪曲(?)は、第二局所論の三つの審級、とくに自我の解釈の仕方に由来する。

 

 患者はフロイトにとってかれの孤独な探究の支え[appui]であり、問いであり、統御である。そこに探究の「劇」がある(失敗に至るまでの?)。この道の果てに約束の地があった。そこにフロイトが足を踏み入れたということではない。「終わりある分析……」を読めばわかる。

 

 自我をとおしてしかなにも知ることはできない。一方、自我は症状として構造化されている。自我はすぐれて人間的な症状である。人間の病(人間という病)である。(アンナ・フロイト

 

 自我理解の曖昧さ(両義性)。自我は失錯行為、言い間違いにひとしい。

 

 フェニシェルによれば、自我は主体が語の意味を学ぶ機能をになう。つまり、ego は moi におさまりきらない。

 

 主体は言語活動に囚われている。

 

 人間的自我は、主体を導く一連の防衛、否定、障害物、制止、根源的空想の「システム」(クライン)である。(主体そのものではない)

 

 患者に現実への再適応を促す際に分析家の自我が現実の基準となりうるか。

 

 

 

*1954年1月20日、27日の講義

 

 他の科学者たちとはちがって、フロイトの探究の領域は主体の真理(≠現実)にあった。これは客観的ないし客観主義的探究ではない。

 

 精神分析は個(particulier)の科学である。フロイトははじめて精神分析をおこなった。それゆえフロイトじしんは既成の「方法」を適用したのではない。それはフロイトだけの方法だった。このことを無視することは重大な科である。真理よりも真理へと至る道が重要である。

 

 『ヒステリー研究』におけるメタファー。病因となる核をとりまく何本かのパロールの流れ、ディスクールの線。抵抗を物質的なものとしてイメージさせている。(フロイトは道の障害として、ラカンは包丁にひっかかる筋肉繊維として抵抗をイメージする。)

 

 『ヒステリー研究』からすでに抵抗の概念は自我の概念と結びついている。

 

 『ヒステリー研究』における自我の定義(心理ではなく「観念の集合[masse idéationnelle]」)。これは1920年(「自我とエス」「集団心理学」)からの自我の観念とはちがう。後期の自我概念は、極度に独創的で新しい理論であるが、ハートマンはそれを伝統的心理学に還元してしまう。