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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

セミネール“マイナス・ワン”:「狼男」(1952~1953年)

 

*「狼男」についてのセミネール(L'Homme aux loups, 1952~1953年)

 

 番号つきのセミネールに先立ち、1951~1952年および1952~1953年にラカンフロイトの症例(ドラ、狼男、鼠男)についてのセミネールをおこなっている。これらは出版されていないが、鼠男については論文「神経症者の個人的神話」(1953年)によって、狼男については出席者のノート(レジュメ)の転写版からその内容の一部を知ることができる。

 

 出席者の一人でもあったG・タヤンディエはこれらのセミネールを「マイナス1巻」「マイナス2巻」と名づけ、その意義をつぎの三点にまとめている(cf. ナジオ編 <<Introduction aux œuvres de…>>)。

 

(1)転移についてのあらたな考え方

(2)象徴的負債

(3)人間存在にとっての狂気(「排除」の概念)

 

 タヤンディエは述べていないが、狼男についての講義においては「父の名」という術語の初出を確認できる。

 

 鼠男の事情と似ているが(cf.「神経症者の個人的神話」)、狼男の父親はものわかりのよい父親であり、エディプス複合における競合者に値しないひとだった。それゆえ狼男にとって「現実的父」は「象徴的父」の役割を果たせない。

 

 子供はその根源的な両性性ゆえに父親にたいするアンビヴァレントな感情を抱くが、狼男のばあい、優しい父親への同性愛的な愛着が父にたいする競合意識によって抑圧されないことで、患者は女性的なポジションつまり去勢された状態にとどめおかれる(これは原光景における母親への同一化であり、姉から受けた性的誘惑における受動的なポジションである)。

 

 この状態は「自己愛的要請[une exigence narcissique]」によって抑圧されねばならない。つまり他者(l’autre)像への同一化による自我の形成によって。

 

 「患者の自我はかれの根本的な受動性の否定にほかならない」。この講義では、自我が少々アドラーふうに(?)「男性的な力」に引きつけて理解されているようにおもわれる。他者像は「男根的」なイメージとして思い描かれ、一つの自我に統合されるべき寸断された身体像とは去勢された身体像をいみする。

 

 去勢の恐怖は父のイメージと不可分であるが、[患者にとって]脅威は父親にとっては表出されず、女性たちによって表出されている。とはいえ父の不在を補填する[suppléer]なにものかが介入するのであり、そのなにものかは宗教的なイニシエーションというかたちのもとにそうした補填をなした。

  狼男は身近な女性から聞かされたキリスト教の教えに助けをもとめる。ところでフロイト――すくなくとも『ある幻影の未来』までの、という断り書きがひつようだろう――にとって宗教とは幻影である。宗教的な父性という文化的な参照物はけっきょく「想像的父」でしかなく、患者は去勢恐怖へとつれもどされる。

 

 「父の名」という術語は、すくなくともその初出においてははっきりと宗教的コノテーションとともに導入されていたのだ。

 

 男の子が宗教という形態を知らないばあい、かれは自前で宗教をつくるのだ。それが強迫神経症であり、これは[ほんらいの]宗教には含まれない。宗教教育が子供に教えるのは<父>と<息子>の名である。しかし精霊[l’esprit]が欠けている。つまり尊敬の感情が。

  いわば「辱められた父」である現実的な父親にたいして「尊敬」の感情がもてないことであろう。

 

 患者はまた、フロイトに象徴的な父の役割をもとめようとしたが、フロイトは「あまりに maître」「あまりに至高な父」でありすぎて、患者の要求をみたせなかった。

 

 かれはけっして<父>を象徴し、受肉するような父親をもつことがなく、その代わりに<父>の名をあてがわれるにいたった。そもそものはじめには父親との現実的な愛情関係があったが、それは原光景の不安の再活性化をひきおこす。象徴的な父の模索は、去勢恐怖をひきおこし、これによって患者は原光景の想像的父の下へと追い返される。こうして悪循環がうまれる。

  ここからわかるとおり、この時点での「父の名」とは「想像的父」にひとしいものとされ、このばあいの「名」ということばは、物質性(想像的なもの)の剥奪というのちの「父の名」概念のいみあいにおいてではなく、「名」だけの父にすぎないというペジョラティフな(?)ニュアンスで使用されている。

 

 ところで、狼男の症例はフロイトによって分析の期限が設けられたことで知られている(この「時間的切迫」は論理的時間における急ぎの作用を担う。このことは「ローマ講演」でふたたび確認される)。患者はその後パラノイアを発症し、R・マック・ブランスウィックの分析を受けることになる。それゆえ患者は治癒にいたっていなかったといえるが、この事後的な発病は分析に期限を設けたためにフロイトへの転移が解消されなかったためである。ブランスウィックとの分析において問題になっていたのはフロイトへの転移の解消である。患者はフロイトの有名な症例であることを誇りにし、フロイトお気に入りの息子を自認していた。ブランスウィックがフロイトに分析の経過を報告し、フロイトに指示を受けているとおもいこんでいた。一方でフロイトに似たX教授にたいして迫害妄想をいだいていたが、ブランスウィックによれば患者にとってフロイトとX教授は同一人物である。一方ラカンによれば、ブランスウィックじしんは患者にとって姉のポジションにいたが「姉が失敗したその地点でかのじょ[ブランスウィック]は成功を収めた」。患者は姉を父親に重ねていたが、ブランスウィックはじぶんがフロイトと通じていないこと(それゆえ患者がフロイトに愛されてはいないこと)を理解させることで、この同一化を断ち切り、「患者はかのじょによってふたたびこの世に産みだされた[ré-enfanté]」。このへんの事情については「精神分析におけることばと言語活動の機能と領野」においても触れられている(ブランスウィックの「転移にたいする繊細な立ち位置」)。

 

 

 「精神分析における話と言語活動の機能と領野」の中心的な論点はこの講義ですでに提示されている。たとえば、

 

 歴史とはなにか? 動物は歴史をもつのか? 歴史は人間に固有の次元なのだろうか? 歴史はひとつの真実(vérité)であり、この真実を引き受ける主体が主体そのものの構成においてこの真実に依存しているという特性をもつ。というのは主体はその真実をじぶんなりのやりかたでくりかえし考えなおすからだ。……精神分析の経験は主体にとって「かれの真実」のレベルでなされる。

  あるいは、

 

 言語活動はたんに意思疎通の手段であるだけではない。主体が話すとき、かれの口にする[dire]ことの一部は相手にとって顕現として作用する[avoir part de révélation]。

 

 また、エディプス複合についての見解はこの講義が分水嶺になっているようにおもわれる。

 

 狼男においてはエディプス複合が転倒しており、これは父のイメージのマイナス分[la moins value]にもかかわらずそうなのである。

  また、

 父が欠損している[carent]のでエディプス複合が完遂していない。

  そしてこの未完性ゆえに狼男は動物におけるような、もしくは主と奴の関係におけるような想像的二者関係からぬけだせない。

 

 と、このへんの指摘はたしかにタヤンディエの挙げる三つめのポイントにかかわっており、その後の理論的展開においてねりあげられることになる指摘である。

 

 一方でこの講義(および「神経症者の個人的神話」)には、エディプス複合の「変異」を文化的背景に帰す『家族複合』の見解の名残がまだみられる。たとえばこんな指摘がある。

 

 物質的な遺産の受肉する力が患者を疎外し(典型的なブルジョワ的出自をもつ患者は「“裕福”の心的構造をもっている」)、患者を父親への自己愛的な愛着に縛りつける。姉の死はこの愛着を強化する効果をもたらしている……。

 

 遺産にかぎらず、「贈与」はさまざまなレベルでこの症例にとって重要なモチーフであるが(フロイト献金、「パロールという贈与」、原光景のさいの患者の脱糞)、とりあえずつぎの一節を引いておく。

 

 献身性[oblativité]の真のいみは人間的セクシュアリテへの満ち足りた到達の一部をなす贈与の関係においてみいだされる(愛他主義は別のものであり、それは他人との自己愛的な同一化に由来している)。真の献身性は人間の欲望が承認され他人の欲望によって媒介されることへとみちびく象徴的な関係である。いわば他人[へ]の欲望のいっしゅの切り抜き[coupure]である。