lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

Fort, Da, da, da:「ローマ講演」第3部を読む(完結)

 

 半年にわたるシリーズ最終回。ついでに言っておけば、途中からちょいちょい参照させていただいていた新訳(新宮訳)はすばらしい仕事だとおもう。

 

 

 Ecrits, p.320~

 

 人間の自由はある三項図式のうちにまるごと書き込まれている。その一つ。相手を従属させるという果実の享楽への他人[へ]の欲望を、死の脅威ゆえに断念すること。二つ。人間の生を分節する[donner à la vie humaine sa mesure]諸々の理由により、生を犠牲にすることに同意すること。三つ。敗者の自殺的断念。これによって人間は主人をその非人間的な孤立のうちに置き去りにし、主人から勝利の満足をうばう。

 

 こうした死の形象のうち、第三のものは最高の迂回である。その迂回によって、欲望の無媒介的な特殊性は、消すことのできないその形態を再征服しつつ、否定[dénégation]のうちに最終的な勝利をみいだす。そしてわれわれは、そのいみを承認しなければならない。なぜならわれわれ[分析家]はそれに関係があるから。というのもそれは本能の倒錯ではなく、生の絶望的な肯定なのだ。この生はもっとも純粋なかたちの生であり、そこにおいてわれわれは死の本能を承認する。

 

 主体は言う。「否!」と。間主観性のばばぬき遊びにたいして。このばばぬき遊びにおいて、欲望は一瞬承認され、他人の望み[vouloir]である望みのうちに失われる。忍耐強く、主体はかりそめの生を象徴のエロスの縮れた凝集[moutonnantes agrégations]から引き抜く。さいごにことばなき呪い[malédiction]においてそれをたしかめるために。

 

 したがってわれわれが主体においてことばの連鎖的作用以前にあったものに至り着こうと望むとき、そして象徴の誕生にとって第一であるものに至り着こうと望むとき、われわれは、それを死のなかにみいだす。この死のなかから、かれの実存はいみあるすべてを獲得する。というのも死の欲望としてこそ主体は他人たちにとって肯定されるのだ。かれが他人に同一化するとしたら、それは他人をかれの本質的なイメージの変容のなかで凍りつかせることによってであり、かれによってあらゆる存在が呼び出されるのは、死の影のあいだからでしかない。

 

 この致死的ないみがことばにおいて、言語活動の外部の中心を顕現させると言うことは、一個のメタファー以上のことであり、ひとつの構造を明らかにする。この構造は円周あるいは球の空間化とはちがう。こうしたものにおいてはこのんで生体とその環境の境界が図式化される。この構造は、むしろ、象徴的論理学が環として位相幾何学的にしめすリレーショナルなグループに呼応している。

 

 それに直感的な表象をあたえたければ、一つの地帯の表面性よりも、トーラスの三次元的形態にこそ依拠すべきであるようにおもわれる。周縁の外部と中心の外部が同じひとつの領域をなすかぎりでの。(1966年の脚注:われわれが5年前から実践しているトポロジーへの最初の言及。)

 

 この図式は弁証法的な過程の終わりなき循環性を満足させる。この過程は、主体が、無媒介的な欲望の生の曖昧さにおいてであろうと、死へと向かう存在のまったき引き受けにおいてであろうと、かれの孤立を実現するときに生じる。

 

 しかしそこにおいては同時につぎのことも理解できる。弁証法は個人的でないということ。分析の終了の問題は、主体の満足が万人の満足において実現される瞬間の問題でもあること。万人とはつまり、一個の人間的営みにおいてこの弁証法が連携するすべての者ということである。この時代にあらわれているあらゆる営みのなかで、精神分析の営みはおそらくもっとも高位にある。なぜなら、その営みは、そこにおいて、気遣いの人間と絶対知の主体とのあいだの媒介として作用するからだ。それはまたなぜ精神分析の営みが主体的な長い、けっして中断されることのない禁欲を要請するかの理由でもある。教育分析の終了そのものもみずからの実践への主体の関与と不可分である。

 

 こうしたレベルで時代の主体性に追いつけない者はそれを放棄するがよい。なぜなら、そのような者には、みずからの存在をこれほど多くの人の生の中心に据えることなどできようはずがないから。そのような者とは、これらの生たちとともに象徴的運動へと入らせる弁証法について何も知ることのないであろう者のことだ。そのような者は、かれの時代が継続しているバベルの営みへとかれを導く渦巻をよく知るがよい。そして言語活動が不和をきたす状況における通訳のやくめを知るがよい。mundusの闇、その周囲を巨大な塔がめぐる闇と引き換えに、生の腐敗する蛇が永遠の木によじ上るのをそこにみる心配を神秘主義的ヴィジョンに委ねるべきである。

 

 お笑いだ。こうした発言が、フロイトの著作の意味を、フロイトの意図に反してその生物学的基礎から文化的文脈へと逸脱させるものと見なすのなら。フロイトの著作は文化を論じつくしているのだから。われわれはここで、ファクターbやファクターcといった説を教示しようとは望んでいない。われわれはただ、思い出してもらいたいのだ。言語活動の構造の誤解された abc を。そしてことばについての忘れられた b-a, ba [初歩]を。

 

 なぜなら、どのような秘訣[処方]が、一方によって構成され他方によって結果を引き出される技法に導くというのだろうか。双方の側から領野と機能を承認しないのなら。

 

 精神分析的経験は人間のなかに言葉[verbe]の至上命令を法として再発見した。その法は、人間をその似姿にかたちづくる。精神分析的経験は、欲望に象徴的仲介をあたえるために言語活動の詩的機能を操作する。この経験が、ついに理解させればよいものだ。ことばの贈与においてこそ、この経験の効果のいっさいの現実性が宿ることを。なぜなら、いっさいの現実が人間に到来するのはこの贈与を通ってであり、人間が現実を維持するのは、この贈与を継続する行為によってであるからだということを。

 

 このことばの贈与が画定する領域があなたの行為にもあなたの知にもじゅうぶんであれば、この領域はまた、あなたの献身にもじゅうぶんであろう。なぜならこの領域はあなたの献身に特権的な領野をあたえるから。

 

 『ウパニシャッド』第5講、第1ブラフマナで、デヴァたちと男たちとアシュラたちが、とともに修行を終えようとしていたとき、彼らはプラジャパティにこう祈った。「われわれに語りたまえ」。

 

 雷の神プラジャパティは言う。「Da. おまえたちにはわたしのいうことがきこえたか」。デヴァたちが答える。「あなたはわたしたちに言った。じぶんを律せよと」。――聖典の言わんとしているのは、高位の力はことばの法にしたがうということだ。

 

 雷の神プラジャパティは言う。「Da。おまえたちにはわたしのいうことがきこえたか」。人間たちが答える。「あなたはわたしたちに言った。与えよと」――聖典の言わんとしているのは、人間はことばの贈与によって互いを認めるということだ。

 

 雷の神プラジャパティは言う。「Da. おまえたちにはわたしのいうことがきこえたか」。アシュラたちが答える。「あなたはわたしたちに言った。恩恵を施せと」。――聖典の言わんとしているのは、低位の力はことばの呼びかけに反響するということだ。(1966年の脚注:ポンジュは「反響」を réson と書いている。)

 

 これこそ神の声が雷において聞き取らせたことだ。そう聖典はつづける。すなわち、従属、贈与、恩恵。Da da da。

 

 なぜならプラジャパティはみなに答えているから:「おまえたちはわたしのいうことをききとどけた」。