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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

狼と主人と死:「ローマ講演」第3部を読む(その9)

 

 Ecrits, p.314~

 

  timing の切断が主体における急ぎの瞬間を中断する際の無関心は、そこへと主体の言説が急ぐ[se précipiter]結論にとって致命的となるおそれがある。ひいては誤解を植えつけるおそれがある。あるいは策略の口実になるおそれがある。

 

 初心者はこのような偶発事の諸帰結にとくにおどろくようだ。このことによって、年季を重ねた者たちはじぶんたちは熟練していると考える。

 

 たしかに中立性の規則を厳密に適用する際、中立性はわれわれの非介入[non-agir]の道を踏み外さずにいる。

 

 しかしこの非介入には限界がある。さもなければどんな介入もないことになる。ではなぜこの特権的な時点で介入が不可能なのだろうか。

 

 この時点が分析家において強迫的ないみをもってしまうことの危険は、単純に、主体との共犯を引き起こすことだ。つまり、強迫神経症者はこの危険にさらされているということばかりではなく、この主体[?]において、この危険は、苦役[travail]の感情ゆえに特別な効力をもつ。しられるように、この主体においては余暇にさえ強制労働への支払い書が発行される。

 

 このいみは、主人への主体的な関係によって支えられている。かれが待ち望んでいるのは主人の死であるかぎりで。

 

 というのも強迫神経症者はヘーゲルが主人と奴隷の弁証法において展開しなかった態度の一つをしめしているからだ。奴隷は死の危険をまえにして逃げ出す。そこにおいては純粋な権威を賭けた争いにおける支配[maîtrise]の機会があたえられていたのに。しかしじぶんが死すべき者であることを知っているので、主人も死ぬかもしれないことをも知っている。それゆえ、主人のために労働し、その間、享楽を断念するすることを受け入れることができる。そして、主人の死がやってくる瞬間が不確実であるなかで奴隷は待つ。

 

 これが強迫神経症患者における性格の特徴である懐疑と優柔不断の間主観的な理由である。

 

 とはいえかれの仕事のいっさいは、この意図のもとに[sous le chef de]なされ、それゆえに[de ce chef]二重に疎外を促す。というのも、仕事の成果[œuvre]を他人によって奪われるというこの関係がかれの仕事につきものであるだけでなく、この成果における主体によるみずからの本質の承認(そこにおいてかれの仕事は意義をみいだす)もやはり奪われてしまうから。なぜならかれじしんが「そこにいない」から。かれは主人の死の先取りされた瞬間にいるのであり、この瞬間から生きはじめるのだ。とはいえその瞬間を待つあいだ。かれは死としてのじぶんに同一化している。それゆえにかれはすでに死んでいる。

 

 それにもかかわらず、かれは仕事をとおして善意をみせつけることで主人を欺こうとする。これは分析的カテキズムの優等生らが粗雑な言葉遣いで述べていることだ。いわく、主体の ego がかれの super-ego を誘惑しようとしている。

 

 このような内-主観的な表現は、分析的関係において理解されるや、ただちに馬脚をあらわす。分析的関係においては、主体の working through[徹底操作]はたしかに分析家の誘惑のために使われるから。

 

 弁証法的な発展がわれわれの患者における ego の意図の糾弾に近づくや、分析家の死という幻想(しばしば怖れないし不安として感じとられる)がかならず生じるというのも、これまた偶然ではない。

 

 すると主体はかれの「善意」をよりいっそうみせつけようと努力する。

 

 であるからには、このような労働の生産物にたいして主人によって感じとられるいくぶんの軽蔑の効果を疑う理由はない。主体の抵抗はそのことによって絶対的に気まずくなる。

 

 この瞬間から、それまで無意識的であった主体の不在証明は、主体にとってあらわになりはじめ、主体は大いなる努力の理由を必死に探す。

 

 ある瞬間に実験され、結論に至ったわれわれの経験、短時間セッションと名づけられたものによって、このような男性患者において肛門をつうじての妊娠幻想と帝王切開による出産の夢とを期限内にうみださせることができたことがわれわれの主張の裏づけである。この期限をもうけていなければ、われわれはドストエフスキーの芸術についてのかれの講釈をまだ聞き続けていたところだ。

 

 われわれはこの方法を擁護したいわけではない。この方法が技法の適用において正確に弁証法的なひとつの意味をもつことを示したいまでのことだ。

 

 われわれはこの方法が禅の技法と近親性をもつと指摘したいわけでもない。

 

 この技法を極端に押し進めることが問題なのではない。そうした行き方はわれわれの方法が背負っているいくつかの限界の対極にあるからだ。極端に走ることなく、分析においてこの原則を慎しみふかく適用することは、抵抗の分析と呼ばれている流行の方法よりもはるかに許容可能であるとおもわれる。すくなくともこの方法には主体の疎外という危険はまったくない。

 

 なぜならこの方法が言説を止めるのは、もっぱらことばを産み落とすためだから。

 

 かくてわれわれは返答をせまられている[au pied du mur]。言語活動の壁際へと追いつめられている。この壁際で、われわれはほんらいの場所にいる。つまり患者と同じ側にいる。そして患者にとってもわれわれ分析家にとっても同じであるこの壁においてこそ、われわれはことばの反響に応答しようとする。

 

 この壁の向こうには、われわれにとって外部の暗闇となるものはなにもない。つまりわれわれは状況をすっかり支配しているということだろうか。もちろんそうではない。フロイトはこのことについて陰性治療反応という遺言を残してくれた。

 

 この謎をとく鍵は、原初的マゾヒズムという審級のなかにある。これは死の欲動の純粋状態でのあらわれであり、フロイトはそのキャリアの絶頂期においてこの謎をわれわれにかけたのだった。

 

 これを無視することはできない。答えを保留することもできない。

 

 というのもフロイト理論のこのような到達点を否定しようとする態度において、ego なる観念をめぐって(誤って)分析を実践している者らと、ライヒ同様、フロイト理論を踏み外し、ことばを超えた言おうようのない[inéffable]器官的な表現にとびつくあまり、ライヒ同様、武装解除して自由になろうと、『性格の分析』にみられるとほうもない図式のように、蠕動的な二形態の重なりによって、ライヒ同様、かれらが分析から期待しているオルガスム的な感応を象徴化している者らは同罪であるからだ。

 

 この両者よりも精神[esprit]の形成物についてのわれわれの厳密さに部があることがわかるのは、死の本能という観念とことばの問題との深いつながりをわれわれが示すのを俟ってのことである。

 

 死の本能という観念は、考察されることがあまりにすくなく、アイロニーとしてしかとらえられていない。この観念のいみするところは、本能と死という対立する二つの語の交点にもとめられるべきだ。あたうかぎり広義に理解された本能とは、生命機能の完遂のための一連のふるまいを継起的に支配する法則であり、死はまずもって生命の破壊としてあらわれる。