lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

狼の時間:「ローマ講演」第3部を読む(その8)

 Ecrits, p.311~

 

 狼男症例において起こっているのはまさにこのこと。フロイトはそれを理解したので、期限の画定した[fini]分析と画定していない[indéfini]分析についての論文(脚注:『終わりある分析[terminé]と終わりなき[interminable]分析』は誤訳)でふたたびとりあげている。

 

 期限をあらかじめ設定することは、能動的な介入の第一の形態であるが、フロイトみずからがこれをはじめたのだ。予言的な確実性がどのていどのものであるかはともかく(以下の脚注)。分析家はこの症例にしたがうことで予言者ぶることができるだろう。このやり方は、主体をかれの真理から疎外された状態に置き去りにする。

 

 脚注:「訴訟において、告訴を担当する者が問題であり、二人か数人の人がこの役職に任命されることを要求するとき、法廷が原告を任命する判断は divination[予言、占い]と呼ばれる。この語は、原告と被告が相関的な二者であり、一方が他方なしにはありえないことに由来しており、ここでの判決は原告なき被告を出廷させることにあるので、原因があたえないもの、原因がいまだ未知のままにしておくもの、すなわち原告をみつけるために divination に訴えるひつようがあるのだ」(『アッティカの夜』)。

 

 フロイトの症例においても二つの事実においてそのことをたしかめうる。

 

 第一。狼男は、原光景の歴史性を示しているさまざまな証拠があるにもかかわらず、かれじしんの確信にもかかわらず、フロイトが課す方法的懐疑の試練に動じることもないが、原光景の歴史的な想起を完全なものにすることができない。

 

 第二。狼男はのちにパラノイアというかたちでかれの疎外をこれいじょうないほどはっきりとしめしている。

 

 たしかにここには別の要因が絡んでいる。この要因をとおして現実が分析に介入する。つまり金銭的贈与であり、その象徴的価値を考察することは別の機会に譲るとして、その射程はすでに、原始的交換をなしている贈与にたいしてことばがもつ関係についてのわれわれの考察のうちにしめされている。ところでここでは、金銭の贈与はフロイトの発案によって逆転している[無償での分析]。この発案において、われわれがみてとることができるのは、この症例にたちもどることへのフロイトの執着のほかに、この症例が宙吊りのままにする諸問題の主体化がフロイトのなかで未解決になっていることだ。疑いもなく、これこそが精神病を引き起こした要因なのだ。もとよりそれがなぜかをじゅうぶんに説明することはできないが。

 

 とはいえ理解できないのは、ある主体を、症例としての貢献ゆえに精神分析のプリュタネイオン[陸軍幼年学校]に無償で入学させることは、かれの真理からの疎外を決定的に実現してしまうことでもあることだ。

 

 患者がブルンズヴィクに委ねた後年の分析の素材は、それ以前の治療の責任をしめしている。精神分析の仲介におけることばと言語活動の相互の位置関係についてのわれわれの発言を証明している。(1966年の加筆)

 

 それだけではない。こうした観点から、いかにブルンシュヴィクが、転移にたいして繊細な立ち位置を忘れていないかがわかる(ある夢における壁のメタファー)。われわれのセミネールを参照。(1966年の加筆)

 

 アクチュアルな別の側面について考察したい。技法における時間ということだ。セッションの持続時間について述べたい。

 

 ここで問題になるのはまだ、あきらかに現実に属している一要素である。というのはセッションの持続時間は分析家の労働時間であり、このような観点から、それは職業的な規則の問題として重要である。

 

 しかしこの問題の主体的な影響[incidences subjectives]は、それにおとらず重要である。それもまず分析家にとって。最近の議論においてタブーになっていることからあきらかなように、分析家は集団の主体性からほとんど自由になっておらず、ほとんどの人とはいわぬまでもある人たちにとって、歴史的・地理的な違いによるヴァリエーションはあるにしても、ひとつの基準にしたがうにあたっての強迫的とはいわぬまでも臆病な態度は、ある問題が存在している徴候であって、その問題は、分析家の機能を徹底的に問いに付することになるという気がするだけにうかつには近づけない。

 

 一方、分析における主体にとって、その重要性を見逃すことは不可能である。無意識は明かされるのにいくぶんの時間を要する。OK。とはいえどれほどの時間なのか。コイレの言葉を借りれば、正確さの宇宙のそれなのだろうか。たしかにわれわれはその宇宙に住まっているが、人間にとってのその宇宙の到来は最近のことである。きっかりホイヘンスの時計にはじまるのだから。つまり1659年に。そして現代人の居心地の悪さは、まさに[précisément]この正確さがかれにとって解放の要因であることをしめすものではないということにある。重力をもったものの落下にかかるこの時間は、神によって永遠のうちに置かれた天空の時間、リヒテンベルクが言ったように、われわれの日時計とは反対方向に進む時間に呼応する聖なる時間なのだろうか。おそらく、象徴的対象の創造の時間とわれわれがその対象を落とす不注意の瞬間との比較によって、その時間についてのもっとましな考えが出てくるだろう。

 

 いずれにしても、この時間のあいだのわれわれの職務の遂行が問題含みであるとしても、われわれは患者がこの時間のあいだに実現するものにおける労働の機能をじゅうぶん明らかにしたとはおもう。

 

 しかしこの時間の現実は、それがいかなるものであれ、それゆえに、その時間についての局地的な[local]価値しかもたらさない。この労働の生産物の受け取りという価値である。

 

 われわれは、一切の象徴的交換[やりとり]における根本的な機能を引き受けることで、記録というやくわりを果たす。誠実な人(do kamo) が持続することばとよぶものを拾い集めるのだ。

 

 主体の誠実さを否認する証言者。かれの言説の調書の保管者。その正確さの確認元。かれのまじめさの保証人。かれの遺言の委託者。かれの遺言補足書の公証人。分析家はこのように、書記のようなものだ。

 

 しかし分析家が真理の主人であることに変わりはない。主体の言説はこの真理の発展である。だれよりも先に分析家がこの言説の弁証法に区切りを入れる。そしてここにおいて、分析家は、この言説の価を判断する人として怖れられる。この帰結は二通り。

 

 セッションの中断は、主体[患者]にとって、[分析的弁証法の]発展における区切りとして感じとられずにはいない。知られるとおり、主体はその期日を計算して、期限に、あるいは逃げ道に、間に合うようにその発展を分節する。武器の重さを量るように、避難所を見張るようにこの期日を予想する。

 

 聖書であれ中国の聖典であれ、象徴的文物の文面において実践されているひとつの事実がある。区切りの不在が多義性の源泉となり、区切りの書き込みが意味を定着させ、区切りの変更が意味を更新し、もしくは一変させ、区切りの誤りは文面の変更にひとしいのである。