lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

In a Hole : 「ローマ講演」第3部(その6)

 Ecrits, p.304 最終段落~

 

  Two-body psychology とはよく言ったもの。分析はふたつの身体の関係となり、そのふたつの身体のあいだに、空想的なコミュニケーションがなりたつ。そのコミュニケーションにおいて分析家は患者にたいし、みずからを客体としてとらえることをおしえる。そこでは主体性はもっぱら幻影という括弧のなかでしかみとめられることがなく、ことばは経験の探究を究極の目的とするとのそしりをうけるが、弁証法的に必然的なその成果は、分析家の主体性が暴走し、患者を分析家のことばによる呼び出しにゆだねるという事実のなかにあらわれる。

 

 ひとたび分化した間主観的局所論は、分析にたちあう諸主体のあいだの仕事分担において実現する。エスにぞくするものは自我にならなければならないという、フロイトの公式の濫用は、脱神話化されたかたちであらわれる。「それ」[cela]に変容した主体は自我に合致しなければならないが、この自我のうちに分析家は味方をなんなくみとめる。というのも、それは分析家じしんの自我なのだから。

 

 分析における自我の分裂[splitting]にかんする幾多の理論的公式において表現されているのはこのプロセスである。患者の自我の半分が、被分析者と分析家をへだてる壁の向こう側に移り、ついでその半分が、それからまたその半分が、といったぐあいで漸近線を描くのだが、ついに余白を埋め尽くすことはできない。主体がじぶんじしんに由来するという臆見に沿ってこのプロセスがすすむかぎり。この余白から主体は分析の逸脱に舞い戻りかねない。

 

 とはいえどのようにして、“分析の理論的定式の一切は防衛のシステムである”という原理に基づく分析の主体が、この原理が分析家の弁証法を放棄するような完全な錯綜から防衛され得るというのだろうか。

 

 フロイトの解釈の弁証法的な方法はドラ症例において遺憾なく発揮されているが、このような危険とは無縁である。なぜなら、分析家の偏見(分析家の逆転移。この術語の正しい用法は、誤謬の弁証法的理性をこえたものとして理解されるべきではない)が、フロイトの介入を踏み迷わせたとき、フロイトは、陰性転移によってそのつけをすぐさま支払っているから。なぜなら、陰性転移は、このような分析がすでに患者を真の承認へと導いているだけにおおきな力をもってあらわれ、通常は亀裂をもたらすからである。

 

 ドラ症例において、K氏の人物像のうちにおのれの欲望の隠れた対象をみとめさせようというフロイトの執心ゆえに起こったのはまさにこのことである。フロイトの逆転移の一部である偏見は、フロイトをしてこのK氏において患者の幸福の約束をみいだすべく導いていた。

 

 おそらくドラじしん、K氏との関係に騙されていたのであろうが、にもかかわらず、フロイトがこの関係に欺かれていたということをつよく感じていたのだった。しかしドラが十五箇月後(かのじょにとっての宿命的な「理解するための時間」)にふたたびフロイトのもとをたずねたとき、かのじょが、欺いたと欺くことへと歩を進めていることがみてとれる。そして見せかけの欺きが、フロイトが、不正確ではないとはいえ、その真の動機を認めることなく、かのじょに帰す攻撃的意図と一致することは、いまや公認された「抵抗の分析」なら両者のあいだに刻みこみかねない間主観的共犯性を素描している。われわれの技法的進歩によっていまやもたらされた諸手段を用いて、人間的誤りが限界をふみこえて悪魔的になってしまった可能性があることは疑いを挟まない。

 

 こうしたことは精神分析がつくりだしたものではない。というのもフロイト本人が、ヒステリー患者の欲望によって狙いをさだめられた対象の同性愛的ポジションについての誤解[méconnaissance]がみずからの失敗の前提となった源泉であることを事後的に認めているからだ。 

 

 精神分析のこのような今日的傾向は、まず、分析家がかれのことばによって起こされる奇跡についてまちがった認識をしていることに由来している。分析家が象徴を解釈する。すると、その象徴を主体[患者]の肉体のうちにくるしみの文字[=配達中の手紙]として刻み込んでいる症状が消える。このような奇跡の施しは、精神分析の慣習では不作用である。というのもけっきょく分析家は知識人であり、魔術は擁護しうる実践ではないから。患者に魔術的な思考を押しつけることによって責任逃れをしている。やがて患者にレヴィ=ブリュルの福音書を読み聞かせでもしてやることになるだろう。さしあたって、分析家はふたたび思考する人になった。患者とのあいだに保つべき適正な距離をとりもどした。この距離にかんしては、われわれの高みとくらべたばあいのヒステリー者のわずかな能力についてのジャネの文章においてきわめて格調たかく謳われた伝統を少々早急に放棄することになったのだ。「かのじょは科学について何も理解しないし、科学に関心をもつことがあるなどとは想像もしない。かのじょらの思考をとくちょうづけている統制の不在に思いをいたすならば、所詮はいたって素朴なものであるかのじょらの嘘に憤慨するよりも、たくさんの誠実さがまだ残っていることに驚くだろう、云々」。

 

 この文章は、患者にたいして上から目線で「じぶんの言葉[langage]」をかけてやるこんにちの分析家の多くに心当たりのある思いを表しており、その間に起こったことを理解する役にたつ。というのもフロイトがこの文章を書くことができていたとしたら、初期の患者たちの作り話にこめられた真理をいかにして理解できていただろう。フロイトはじっさいに理解していた。あるいは、シュレーバーのそれのように晦渋な妄想を解読し、みずからの象徴に永久に縛りつけられた人に見合うようにその妄想を拡大鏡にかけることがいかにしてできたであろう。

 

 われわれの理性はあまりに脆弱なので、学問的な言説の省察におけるじぶんと象徴的対象の原初的な交換におけるじぶんとがひとしいことをみとめることができず、また、そのいずれにおいても理性ほんらいの狡智という同じものさしをもちだすことができないのであろうか。

 

 「思考」というものさしがなんの役に立つのか、その本分を行動の等価物よりも肛門性愛に近づけているような経験をもっぱらとする実践家に思い出させるひつようがあるのだろうか。

 

 あなた[分析家]に話しかけている人が、かれのほうとしては思考にうったえるまでもなく次のことを理解しているとあなたに証言しなければならないのだろうか。つまり、かれがいまこのときあなた[分析家]にかれのことばについて話しているのは、われわれがことばの技法を共有しているかぎりにおいてのことであると。そして、このことばの技法は、かれがあなたにじぶんのことばについて語るときにそのことばをききとるようあなたに促し、あなたをとおして、そのことばをなにも理解しない人たちに話しかけるようにかれに促すということを。

 

 たしかにわれわれ分析家は言説の穴に潜む言われていないこと[non-dit]に耳を傾けなければならないが、これは壁の向こう側をノックする音として聞きとられるべきものではない。(1966年に加筆)

 

 というのは、これ以降もっぱらこの物音だけに注意をはらうために、分析家はそのいみを解読するのに願ってもない状況に分析家はいなかったと認めるべきである。大胆にも理解しようなどとせず、いかにして、もともと言語活動でないものを翻訳することができるというのか。こうして主体のたすけを借りるにいたり(というのも、けっきょく、われわれ[分析家]がこの理解を手にすることは主体の功績だからであるが)、われわれは主体をわれわれとともに賭けへと連れ出すのであるが、この賭けはたしかに、われわれが主体を理解し、リターンマッチがわれわれのいずれをも勝者にすることを待ち望む体のものである。そうすれば、この往復便を乗り継ぐことで、主体はじぶんじしんで拍子を刻むことをごく簡単に学ぶであろう。これはいっしゅの暗示であり、ほかの暗示に遜色ないのであって、別のいかなる暗示におけるのとおなじように、誰が得点をあたえているのかはわからない。この方法は監獄行き[aller au trou]と相場がきまっている。(1966年加筆)