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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

フロイトに帰れ:「ローマ講演」第3部(その5)

 Ecrits, p.301~

 

 のみならず語は、それじたい象徴的な外傷[lésion]を被り、患者がその主体である想像的な行為を為し遂げることができる。W(Wespe 蜜蜂)が「去勢」されて、狼男のイニシャル S.P. になったように。その瞬間、かれはグルーシャ(蜜蜂)から受けた象徴的罰を実現する。

 

 鼠男のまじないのことばが圧縮された謎めいた言い回しの残滓であるSも思い出される。フロイトがその数から恋人の名のアナグラムを導き出し、それが射精をおわらせるアーメンといっしょになって、かれの不能な欲望の象徴的な射精によって婦人の名を浸すのだ。

 

 アブラハムの仕事に基づいたロベルト・フリースの論文も、言説は全体として身体イメージにおける性感帯の移動にともなって性愛化の対象になり得ることをおしえている。

 

 そのとき言説は男根=尿道的、肛門性愛的、ひいては口唇サディズム的機能をもつ。さらにロベルト・フリースは患者がそれによって得る満足の制止を特徴づける沈黙における言説の効果を理解している。

 

 それゆえことばは、主体において、想像的な対象、ひいては現実的な対象になり得るのであり、そのかぎりで、言語活動の機能の若干の側面を呑み込む[ravaler]可能性がある。そのとき、われわれはことばを、ことばによる抵抗という観点から理解する。

 

 とはいえそれは、ことばを分析の関係から排除することではない。そんなことをすれば、分析的関係は存在理由を失う。

 

 分析が目標とすることができるのは、真のことばの到来と、未来への関係における主体によるみずからの歴史の実現だけである。

 

 この弁証法を貫くことは、分析の一切の客観主義的立場と対立する。このことの必要性を強調することは、分析においてしめされている新傾向の偏りをあばくために重要である。

 

 フロイトへに立ち戻ることによって、われわれの主張を説明しよう。われわれの出発点である鼠男にふたたび立ち戻る。

 

 フロイトは患者[主体]の真実にいたるばあいに、事実には頓着しないことさえある。あるときには、母親による結婚の提案が患者の神経症の進展に果たす重要な役割に気づいている。フロイトはかれの個人的な経験から直観的にそれがわかった。これはわれわれのセミネールでもしめしたとおり。とはいえ、フロイトはそのことの効果を、亡父が意中の婦人との関係を禁じたことに関係すると解釈することをためらわない。

 

 これはたんに事実として不正確であるだけではない。心理学的にも不正確である。というのも、父の去勢的な行為は、二次的な役割しか果たしていないから。とはいえ、弁証法的な関係の認識は正当なので、フロイトの解釈は、主体を自己愛的に亡父と理想化された婦人とに同時に結びつけている苦痛な象徴をみごとに消滅させる。亡父と理想化された婦人のふたつのイメージは、強迫神経症患者に特徴的な曖昧さのうちに維持されていたのだ。その一方は空想的な攻撃性として、他方は苦痛な崇拝として。

 

 [つづく4段落においても鼠男についてのコメントがつづく。303頁終わりから二段落目に飛ぶ]

 

 分析において患者にどう答えるかを知るには、その方法は、まず患者の自我(ego)がどこにあるかを認識することだ。この自我をフロイト自身は言葉の核[nucleus verbal]によって構成された自我と定義している。いいかえれば、誰によって、そして、誰にむかって、患者が「かれの問い」を投げかけているかを知ることだ。それがわからなければ、そこで承認されるべき欲望について、そしてこの欲望が向けられている対象について誤解するおそれがある。

 

 ヒステリー患者はこの対象を洗練された筋書きにおいてとらえる。患者の自我は第三者のなかにあり、この第三者を媒体として、患者はみずからの問いの具現であるこの対象を享受する。強迫神経症患者は、自己愛の牢屋に対象を引き入れる。そこではかれの問いはいくつもの致死的な形象によって複数化されたアリバイのなかで反響し、曲芸をこなしながら、桟敷席のほうにあいまいなあいさつを投げるのだが、そこにはかれじしんの席があるのだ。この席はすがたを見られてはならない主人の席なのだ。

 

 「各々の快楽が各々を導く」(ヴェルギリウス)。ひとりは出し物に同一化し、ひとりは出し物を見せるがわにたつ。

 

 前者にたいしては、かれの行為が奈辺に在るかをみとめさせなければならない。この者にとっては、アクティング・アウトという術語は文字どおりのいみをもつ。かれはじぶんじしんの外側で行為するから。後者にたいしては、舞台からはみえない観客のなかに分析家のすがたをみとめさせなければならない。死の仲介がこの観客に患者を結びつける。

 

 というわけでいつも、患者の自我が、かれの言説のなかの「わたし」にたいしてもつ関係のなかに、主体を疎外からすくいだすために言説のいみを理解すべきなのである。

 

 しかし患者の自我は分析家に話しかけるひとの現前と同一であるという考えにしがみついていてはうまくいかない。

 

 このような誤りは、客観主義的な思考に毒された局所論の語彙によって促進される。そのような語彙が、知覚-意識系として、つまり、主体の客体化の体系として定義された自我を、絶対的な現実の相関物として理解された「わたし」のうちに忍び込ませてしまうのだ。そのことによって、心理学主義的な思想の抑圧されたものの特異な回帰として、ジャネが概念化した「現実的なものの機能」にまたぞろ出会うことになる。

 

 このような逸脱がなされるのは、もっぱら、フロイトの著作においては自我、エス、超自我の局所論が同時期のメタ心理学に準ずるものであり、メタ心理学抜きにはいみをうしなうものであることを認識しそこなうばあいである。こうして心理学的な外科手術が継続されることになる。

 

 バリントはみごとな洞察によって、精神分析の新しいコンセプトの発生における技法理論に絡みついた諸効果を分析している。リックマンの Two-body psychology はその典型だ。