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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

主人と主体:「ローマ講演」第3部(その2)

 

 Ecrits, p.293~

 

 

 他方、ヘーゲル精神分析家のいわゆる中立性にひとつのいみを絶妙なタイミングでもたらしてくれているので、われわれはソクラテスの産婆術の柔軟性[可塑性]、さらにはプラトン技法を借りてくるひつようはまったくない。ソクラテスソクラテスの欲望のなかに、精神分析家についての解明されざる謎を感じとり、プラトン的なX線術にてらしてわれわれの真理への関係を位置づけるひつようはあるが。このばあい、プラトンが、イデアのあらわれにかんして想定した無意識的記憶[レミニサンス]から、キェルケゴールの反復において消尽される存在のくみつくしにいたる距離を考慮しなければならないが。(以上4つの段落は1966年に手直しされた。)

 

 とはいえ、ソクラテスの対話者とわれわれとのあいだの歴史的な差異を考慮することはむだではない。ソクラテスが、奴隷の言説からも引き出すことのできる職人の理性に依拠するのは、ほんとうの主人(maîtres マイスター)たちに、かれらの権能と、ポリスの合言葉(maîtres-mots)の真理に反証する秩序を必要とさせるためである。とはいえ、ここで問題になっている奴隷は、みずからが主人であるとおもい、普遍的な使命をのべた言語活動のなかにみずからの隷属の支えをみいだしている奴隷である。この言語活動のあいまいさにみずからを結びつけることで。ユーモアでこうもいえる。われわれの目的は、奴隷たちのなかに、ハンプティ・ダンプティが実現している至高の自由を再構築することであると。アリスにたいして、じぶんが、じぶんの存在にかたちをあたえるシニフィエの主人ではなくても、シニフィアンの主人であることをおもいださせるときだ。

 

 それゆえわれわれは、つねに、われわれがことばと言語活動にたいして二重に依拠していることを理解する。主体[患者]のことばを解放するために、分析家は主体のことばをかれの欲望の言語活動へと導く。つまり、最初の言語活動(langage premier)であり、そこにおいては、主体がじぶんについてわれわれに語ることのむこうがわに、すでに主体はしらぬまにわれわれに話しかけている。まずは症状という象徴のなかで。

 

 ここで問題にしているのは、分析であきらかにされる象徴界における言語活動である。この言語活動は、リヒテンベルクのアフォリズムにあるユーモラスな願望に呼応しているのだが、ひとつの国語のそなえている普遍的な性格をもっている。それはあらゆる別の国語において聞きとられるけれども、同時に、みずからを承認させることで人間化するまさにそのときに欲望をとらえる言語活動であるべく、絶対的にその主体に特有のものである。

 

 最初の言語活動とは、原始的な言語をいみしない。それの完全な発見によってシャンポリオンにも比すべきフロイトは、その言語を、現代人の夢においてすっかり解読してみせた。その言語の主要な領域は、この作業にもっとも早くから協力した先駆者のひとりであり、そこに新しい要素を付け加えた数少ない者たちのひとりであるアーネスト・ジョーンズによって定義されており、そのためにジョーンズは多少の権威をもつにいたっている。

 

 象徴についての基本文献となっている論文(「象徴の理論について」)で、ジョーンズ博士はつぎのように指摘している。精神分析が象徴と呼ぶものはたくさんあるが、そのすべてが固有の身体、親族関係、誕生、生と死に関係している。

 

 この事実は、つぎのことを理解させてくれる。精神分析でいう象徴が無意識において抑圧されているとしても、それじたいとしてはいかなる退行のしるしをも、さらには未熟さのしるしをも帯びてはいない。それゆえ、象徴が主体において効果をもつには、聞き届けられる[理解される]ことでじゅうぶんだ。というのも、こうした効果は、しらぬまにうまれるからだ。つねひごろの分析でわれわれが経験しているとおりである。これによって、正常者であれ神経症者であれ、主体の多くの反応が説明できる。ある行為、ある関係、ある対象にたいする、象徴的ないみでのかれらの回答によって。

 

 それゆえ、まちがいなく、分析家が象徴の力を利用することができるのは、象徴の言葉(propos)の意味論的な反響において計算された仕方で象徴を引き合いにだすことによってではない。

 

 そうした行き方は、象徴的効果を解釈するという使用法への回帰にほかならない。

 

 ヒンドゥー教の dhvani の伝統を参照できよう。それによると、ことばはそれがのべていないことを聞き取らせる特性をもつ。このことが素朴でユーモアのある物語によって示されている。

 

 若い女性が、川辺で恋人を待っている。そのとき、ブラフマンが歩いているのを見る。かのじょはブラフマンに近づき、愛敬たっぷりにいう。「きょうはなんて幸せなの! 吠えておどかす犬はもういない。ライオンにくわれてしまったから」。

 

 ライオンの不在は、現前しているライオンが一度しか起きないのと同じだけの効果をもっている。フロイトのほめたことわざにあるとおりだ。

 

 象徴の「一次的な」(premier)性質によって、象徴は、他のすべての数がそれによって構成されている数に似ている。さまざまな象徴がひとつの国語のあらゆる意味素を貫いているとすれば、それら意味素の干渉のちょっとした探究によって、隠喩をとおしてことばにそのフルな喚起力をとりもどさせることができるだろう。隠喩による象徴的な移動が、隠喩の結びつける複数の語(termes)の二次的な意味を中性化するのだ。

 

 この技法は、人に習うばあいであれ、じぶんで習得するばあいであれ、ひとつの国語をすっかりマスターすることを要求する。とくに、詩のテクストにおいて具体的なかたちをとるその国語の可能性(ressources)をつかいこなせることが要求される。ドイツ文学にたいするフロイトがそうであった。翻訳にめぐまれたシェイクスピアの戯曲についてもそうであった。フロイトの全著作がその証拠だ。ドイツ文学の援用の仕方もその証拠だ。ドイツ語の技法のみならず、ドイツ語の可能性の発見においても。古典の素養や人類学、民俗学への関心のおかげがあるとしても。

 

 分析技法の実践家には、この方面でのフロイトに倣うことを軽視しないでもらいたい。

 

 とはいえなかなかそうはいかない。言葉遣い(wording)の問題をばかにしないこと。英語圏の形態学[語形論]はいまだ定義のむずかしいある観念にたいしてヒントをあたえてくれる。