壁と反響:「ローマ講演」第3部(その1)
男と愛のあいだに/女がいる/男と女のあいだに/世界がある/男[人]と世界のあいだに/壁がある(アントワーヌ・テュダル)
もうひとつのエピグラフは『サテュリコン』の引用。死の欲動についてのもの?
精神分析の経験を、ことばと言語活動に、精神分析の基盤に、帰すことは、技法にかかわる。精神分析の経験が言い表せないもののうちに組み込まれていないとしても、それは変化を被っている。その変化はつねに一方向的であり、原則的に、解釈をその原則からとおざける。それゆえ、解釈という実践の逸脱は、理論が立ち向かうべきあらたな目的を必要とすると考えるべきである。
象徴的解釈の問題は、まず精神分析家たちの狭い世界をおじけづかせ、やがて厄介なものになった。フロイトは象徴的解釈に成功したが、あからさまな教化主義に則っていた。このことはいま考えるとおどろきだ。ドラ、鼠男、狼男の症例におけるこれみよがしな象徴的解釈にはとまどってしまう。器用な分析家ならば、それが正しい技法であったかどうか疑わずにはいないところだ。
このような否定的評価は、精神分析運動史における諸言語の混同に由来している。
このような混同が、じぶんこそは精神分析的経験の客観化[理論化]をなしとげる代表者なのだという自惚れによって増大していること、そしてそのような理論的試みが現実ばなれしていればいるほど歓迎する風潮によって増大していることは注目にあたいする。
抵抗の分析の原則は、実践においては、主体のさらなる無視(méconnaissance)の機会となってきた。ことばの間主観性にたいする抵抗の関係を考慮していないためだ。
鼠男の分析のさいしょの七回分の分析の過程をたどってみれば、フロイトが抵抗をそのつど認識していなかったというのはありえないことにおもわれる。現代の技法家たちは、フロイトがその機会を見逃していたと主張しているけれども、フロイトのテクストそのものにそれをみてとることができるのだ。フロイトのテクストにおける主題のこうした網羅はおどろくべきものだが、いかなる解釈もいまだその可能性を汲みつくしてはいないのだ。
フロイトはかれの患者を当初の躊躇をのりこえるよう促しただけでなく、想像的なものにおけるこの作用(jeu)の誘惑的な射程を完全に理解してもいた。そのことを理解するには、くだんの鼠刑の描写を読めばたりる。「かれの顔は、それと知られていない享楽の恐怖をたたえていた」。この逸話の反復が現在にあたえる効果をフロイトはみのがしていないし、分析家と「残酷な将校」との同一視もみのがされていない。この同一視ゆえにこの逸話は患者の記憶にのぼったのである。これについてのフロイトによる理論的な解明がなされていたので、患者は分析をつづけることができた。
おどろくべきことに、抵抗を解釈するどころか、フロイトは患者を抵抗にゆだねている。それが患者の遊戯(jeu)のうちにとりこまれるようにみえるとしても。
とはいえ、フロイトの説明の極端におおざっぱな性質だけをとっても、教えられることがおおい。問題なのは原則でも教化(endoctrination)でもなく、ことばの象徴的贈与だということだ。想像的な参加という文脈における、秘密の契約の性質をおびた贈与だ。その想像的な参加はこの贈与をふくみ、その贈与の射程は、のちに、患者がかれの思考のうちにつくりだす鼠や、かれが分析にたいして支払う数フローリンの象徴的等価物に匹敵するものであることがわかる。
フロイトは抵抗を無視しているどころか、ことばの反響にゆさぶりをかけるのに適した性質として抵抗を利用しているのであり、あたうかぎり、抵抗というものにさいしょにあたえた定義に忠実である。主体[患者]をかれのメッセージに関与させるために抵抗を使っているからだ。フロイトは、配慮されることで抵抗は、主体が逃避によって誘惑を生き永らえさせる会話のレベルでの対話を維持するようになることを理解するとすぐに、会話を中断している(rompre les chiens)。
とはいえ分析は、ことばが言語活動の諸音域のなかにつむぎだす楽譜の多様な譜表を利用する(jouer sur)。このようなシステム(ordre)においてのみ重層決定がいみをもつ。
われわれはフロイトの成功の原動力をも理解している。分析家のメッセージが主体の深い問いかけに答えるためには、主体がこのメッセージをじぶんだけに向けられた答えとして理解する(entendre 聞く)ひつようがある。フロイトの患者たちは、その先駆けとなった人の口から適切なことばを受け取ることができるという特権によって、この要請をみたすことができた。
鼠男は出版されたばかりの『集団心理学と自我の分析』をしっていた。
とはいっても、この書は分析家たちによってさえ、当時よりもよく知られてはいない。しかし人心においてフロイト的諸概念[観念]が通俗化し、それら概念が言語活動の壁のなかにはいりこんでしまったことで、われわれ分析家のことばの効果は弱まってしまう。鼠男症例でのフロイトの文体を手本にしたとしても。
とはいえ、まねすることが問題ではない。フロイトのことばの効果を再発見するには、かれのつかっている術語ではなく、その術語を統べている諸原則に依拠すべきなのだ。
これら原則とは、自己意識の弁証法にほかならない。ソクラテスやヘーゲルが実現しているそれである。それはつぎのようなアイロニカルな仮定を出発点とする。合理的なものはすべて現実的である。この仮定が、現実的なものはすべて合理的であるという科学的判断を急ぎ導く(se précipiter)。とはいえ、フロイトの発見はつぎのことにある。この検証の過程が主体にほんとうにとらえるのは、主体の中心を自己意識から逸らすこと(décentrer)によってであり、その原則(axe)にしたがって、精神の現象学のヘーゲル的再構成は自己意識を位置づけてきたのだ。すなわち、フロイトの発見は、「意識化」のいかなる試みをも古くさいものにしてしまう。そうした試みは、心理的現象をこえたところで、それのみが普遍的なものに具体的なかたちをあたえる(donner corps)特異な瞬間という状況にはあてはまらない。こうした状況の外では、普遍的なものは一般性のうちに消えてしまう。
このように述べることで、精神分析の技法が、ヘーゲル的現象学の構造をなす契機をどのあたりから無視できなくなるかがあきらかになる。まず、主人と奴隷の弁証法。あるいは美しい魂と心の法則の弁証法。より一般的には、いかにして対象の構築が主体の実現にしたがうかを理解させてくれる一切のこと。
もう一つある。特殊と普遍の根本的な同一性の要請――そこでヘーゲルの天才が証明される――における予言的な考えだ。この考えに最終的に理論的枠組みをあたえるのは精神分析である。特殊と普遍の同一性が主体との分離として実現されるという構造がそれだ。
このゆえに、われわれは個人を全体性とみなすことに反対する。主体は個人に分裂を導入する。集団においてもおなじである。精神分析は個人をも集団をも幻影とみなす。
このことを忘れることはもはやできない。とはいえ、精神分析そのものがそれを忘れてしまえること教えている。精神分析家じしんがそれを証明している。「ニュー・トレンド」の精神分析家たちがこうした忘却の代表者だ。