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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

ゼネストからリベラル・アーツへ:「ローマ講演」第2部(了)

 

 Ecrits, p.285~

 

 対になることで、精神分析の影響力をみいだすこと。民族学がすでに精神分析と並行しておこなっていることだ。民族学は、神話素の共時態にしたがって神話を解釈している。(1966年の追記)

 

 レヴィ=ストロースという人が、言語活動の構造のいみするところ、および、婚姻と親族を規則化する若干の社会法則のいみするところについてほのめかすことで、フロイトが無意識を位置づけたまさにその領土をすでに征服していることは意義ふかいことだ。(1966年の追記)

 

 それゆえ、諸科学のあらたな分類を象徴の一般理論にしたがわせないことはできない。このあらたな分類においては、人間の科学はその中心を主体性の科学として位置づける。以下がその原則である。(1966年の追記)

 

 象徴的機能は、主体における二重の運動としてあらわれる。人間はみずからの行動をひとつの対象となすが、その行動に、望む時に、創設的な位置を委ねるためである。あらゆる瞬間において作用しているこのような曖昧さのうちに、ひとつの機能の発展のいっさいが宿るのであるが、そこでは、行動と知識とが交替する。(1996年の追記)

 

 つぎのふたつの例のうち、ひとつは小学校の学科に、いまひとつはさらにアクチュアルな事例に負っている。

 

 ――その1、数学的例。第一段階。ひとはじぶんが数えたふたつのまとまりを、ふたつの基数として客観化する。

 ――第二段階。これらの数をつかって、これらを加算するという行為を実現する(カント)。

 ――その2、歴史的例。第一段階。われわれの社会において生産をなりわいとしているひとは、プロレタリアのうちにみずからをかぞえ入れる。

 ――第二段階。かれはプロレタリアへの所属の名において、ゼネストをおこなう。

 

 このふたつの例が、われわれにとって、具体的なもののなかで、もっとも対照的なものの領野(数学的法則のいっそう任意な作用、資本主義的搾取の冷酷な顔つき[front])を互いにさしだしあっているとしても、それらの効果は、はるかに隔たったところからやってきたもののようにみえるとしても、この両者が二重の転倒において交わることで、われわれの生活[subsistance]は構成されている。すなわち、もっとも主体的な科学があらたな現実をつくりだし、社会的な分割の闇が、うごめく象徴で武装する。

 

 ここではもはや、厳密科学と、推測的と呼ぶべき科学とのあいだの対立は無効である。この対立の根拠が欠けているからだ。(1966年の追記)

 

 というのも、厳密性は、真理とは別ものであり、推測は、厳格さを排除するものではないから。実験科学が数学からその厳密性を引き出しているとすれば、自然にたいする実験科学の関係は、それだけ疑わしい。

 

 自然にたいするわれわれの結びつきが、われわれが科学においてみいだすのはわれわれじしんの運動ではないのかと自問させることが、詩においてつぎのように表現されている。

 

  ……この声は/それが響く時におのれを知っていて/もはやだれの声でもない/波動の声でも樹々の声でもない 

 

 だとすれば、あきらかなのは、われわれの物理学が心的な創作にほかならないということであり、数学的象徴はその道具なのだ。

 

 というのは、実験科学は、それが適用される量によって規定される以上に、実験科学が現実的なもの(le réel)のなかに導入する計測によって規定されるからだ。

 

 それなしには実験科学が不可能である時間の計測について、そのことはあきらかである。ホイヘンスの時計は、実験科学にその正確さを保障する唯一のものであるが、物体の等重力性(équigravité)――すなわち、同じであることで、あらゆる落下にみずからの法則を適用させる、単一の加速――についてのガリレイの仮説を実証する器官でしかない。

 

 ところで、おもしろいことに、この装置が完成したのは、この仮説が観察によって確証される以前のことであり、この事実によって、この装置は、観察を無用にもし、また、厳密さの道具を提供しもしたのである。(コイレ論文参照のこと)

 

 とはいえ数学は、別の時間を象徴化することができる。とくに、人間の行動を構造化する間主観的な時間である。その公式は、ゲーム理論(または戦略理論。「推計学」と呼ぶほうがよい)によってもたらされるようになっている。

 

 このことを著者は「論理的時間」において示した。

 

 (つぎの段落は「論理的時間」のパラフレーズ

 

 この例からわかるように、ブールの論理学および集合論のヒントになった数学的な形式化は、人間の行動の科学にこのような間主観的な時間の構造をもたらすことができる。精神分析的な推測[科学]は、厳密性を保障するためにこれを必要としている。

 

 一方、歴史家による技術史が示すように、技術の発展が、歴史家の主体性と、出来事を人間化する初歩的な歴史化[物語化]にふくまれる主体性との同一化という理想によって規定されるとすれば、精神分析がまさにそこにみずからの射程[portée]をみいだすことはあきらかだ。すなわち、この理想の実現を知識として得ることができ、精神分析の正しさをみとめさせることができる。歴史の例はまた、われわれの技術および理論にとり憑いている生きた反応への依拠を幻のように追い払う。なぜなら、われわれに関心のあるかぎりでの出来事の根本的な歴史性は、現在における過去の主体的再生産の可能性を想定させるにじゅうぶんであるからだ。

 

 さらに、歴史の例によって、われわれは、いかに精神分析的な退行が、主体の歴史のこうした発展的次元を含意しているかを理解することができる。フロイトはそれについてつぎのように強調している。ユングの神経症的退行の概念にはこのような次元が欠けていると。われわれは、経験が、このような発展のあとをつぐことで、この発展を更新するかを理解する。

 

 さいごに、言語学への参照は、言語活動における共時的構造化と通時的構造化とを区別することで、抵抗や転移の解釈においてわれわれの言語活動のとる相異なる意味[valeur]をよりよく理解することを可能にし、あるいは、強迫神経症における抑圧の固有の諸効果や個人的神話の構造を見定めることを可能にしてくれる方法へとわれわれを導くだろう。

 

 フロイトが理想的な精神分析学部で学ばれるべき隣接諸科学として挙げている学問のリストがある。そのなかには、精神医学や性科学とならんで、「文明史、神話学、宗教心理学、文学批評史」が挙げられている。

 

 技法的な教育のカリキュラムの一貫をなすこうした学科の全体は、ふつう、われわれが記述した認識論的三位一体の一部をなし、精神分析の理論と技法の高度な教育を方法的なものたらしめている。

 

 われわれとしては、ぜひともここに、つぎのものを付け加えたい。修辞学。アリストテレスの『修辞学』においてこの語がいみしている技術的ないみでのdialectique[弁論術]。文法学。そして最先端の言語美学。つまり、省みられることのない機知の技法をも含むような詩学

 

 こうした一覧がある者たちの耳には少々ふるめかしく響くとしても、われわれは、これらをわれわれの源泉への回帰として課すことを厭わない。

 

 なぜなら、初期の精神分析は、象徴の発見と研究に結びついており、中世においてはリベラル・アーツと呼ばれていたものの構造をもつことを志向していたからだ。リベラル・アーツと同様、真の形式化が欠けていたので、初期の精神分析は、特権的な諸問題を一体化したものとして組織されていた。そのひとつひとつが、人間と人間にふさわしい題材とのよろこばしい関係によって発達し、このような特殊性のゆえに、魅力と人間性をもつにいたり、そうしたものが、われわれの目からみると、これら諸学の少々娯楽的な側面を補うことができるのである。初期精神分析におけるこうした側面を軽蔑するのはやめよう。というのも、こうした側面は、まさしく、科学主義がはびこる味気ない時代における人間的意味の再創造[recréation]の表現になるからだ。

 

 精神分析が、弁証法的構造とはぎゃくの理論化という誤った道を進むことで、レベルアップしていないだけに、こうした諸学を軽蔑するのはやめよう。

 

 精神分析がその理論と技法に科学的な基礎をあたえるのは、もっぱら精神分析の経験のこうした本質的な諸次元を適切な仕方で形式化することによってである。こうした諸次元とは、象徴の歴史的理論と並んで、間主観的な論理学と主体の時間性のことである。