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ことばと言語活動のパラドキシカルな関係:「ローマ講演」第二部(その4)

 

Ecrits, p.279~

 

 象徴はある完全なネットワークによって人間の生を包括し、「死へむかう存在」を主体にまっとうさせる。

 

 言語の回路の結節点に欲望がまたたく一瞬が人の生である。

 

 しかしこの欲望が人間において充足されるためには、ことばの同意によって、あるいは権威をめぐる闘争によって、象徴において、あるいは想像的なものにおいて、承認されなければならない。

 

 精神分析において問題になるのは、主体において現実のなさ(peu de réalité)を到来させることである。欲望が承認される間主観的な経験のなかで。

 

 それゆえ問題は、主体におけることばと言語活動の関係である。

 

 この関係における3つのパラドクス。

 

 そのひとつ。狂気においては、ことばの否定的な自由が、承認を不可能にし、転移への障害となる。また、妄想の形成が主体を弁証法なき言語活動において客観化する。

 

 ことばの不在は、言説の常同症(stéréotypie)においてあらわれる。そこにおいて主体は、語るというよりも語られる。石化した形態における無意識の症状がみとめられる。とはいえ主体はそれを引き受けない。

 

 文化において精神病の主体にわりあてられた地位を社会的空間のなかに位置づけることは意義ふかい。かれらは言語活動に関係する仕事につく。かれらを象徴的な不適合によってうみだされる分裂の影響にさらす要因のひとつがここにみられる。こうした象徴的不適合は、文明の複雑な構造に固有なものである。

 

 そのふたつ。さまざまな神経症に固有の構造における症状、制止、不安。

 

 そこにおいてことばは意識を支配する具体的な言説によって駆逐されるが、主体の自然的(器質的)機能において[脚注において盲目の兎への言及あり]、あるいは、内界と外界の境界において両者の関係を構造化するイマージュにおいて、支えをみいだす。

 

 ここにおいて症状は、主体の意識によって抑圧されたシニフィエシニフィアンである。その意味論的なあいまいさによって症状は言語活動の性質をもつ。

 

 とはいえ具体的なことば(parole)である。症状は他者の言説をふくむ。それは症状の謎を解く鍵である。

 

 このことばを読解することで、フロイトは象徴の原始語を発掘した。この原始語は文明人のくるしみ(souffrance)においていまだに生きている(『文明における居心地のわるさ』)。

 

 ヒステリーの象形文字、恐怖症の紋章学、強迫神経症の迷宮。性的不能の魅惑、制止の謎、不安の神託……

 

 そのみっつ。言説の客観化においていみを失う主体のパラドクス。科学的文明に生きる主体の最たる疎外はそこにある。

 

 ヴィヨンの時代の「わたしはそれだ ce suis-je」は現代人において「それはわたしだ c’est moi」に転倒した。

 

 現代人の自我は、うつくしい魂の弁証法の袋小路において形成される。それはみずからが告発する世界の無秩序とみずからの理性を切り離しておこうとする。