lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

父の名の導入:「ローマ講演」第二部を読む(その4)

Ecrits, p.276~

 

 不在によってできた現前である語(mot)によって、不在そのものがみずからを名指しにやってくる。この独特の契機(最初の瞬間)のつねなる再創造[recréation]を、フロイトの天才は、子供の遊戯のなかにみいだした。現前と不在のこのカップリングから、言語(langue)の意味の宇宙がうまれ、この意味の宇宙に事物の宇宙がとりこまれる。

 

 無の痕跡としてしかすがたをもたず、その支持体が変質することのないものによって、概念は、起こることの持続[だけ]をすくいあげることで、事物を生じさせる。

 

 概念が事物そのものであると言うだけではじゅうぶんではない。事物の世界を創り出すのは語の世界である。事物はさいしょは生成途上の万物のいま現在のあらわれにおいてまじり合っていて、その具体的なありかたを[「無の痕跡」としての]みずからの本質に貸し与え、その[具体的な]居場所をつねなるもの[という本質]に貸し与える。

 

 人間は語るが、人間が語るのは、象徴がかれを人間にしたからだ。自然的な集団は、女性の交換によって婚姻規則にしたがう共同体となる。婚姻関係においては、氏族の名が言語のように無意識的にその形式を支配する。この構造は順列組み合わせの規則を網羅している。もっとも純粋な象徴である数の法則が、このような原初的な象徴のありかたに内在している。

 

 こんなぐあいに、エディプス・コンプレクスがわれわれの主観性を限界づけている。

 

 原初の法が、婚姻において、自然を文化に重ね合わせる。インセストの禁止はその主観的な側面にすぎない。

 

 この法は言語秩序にひとしい。氏族の名が親族の系列を決定しているのであるから。世代の混同は言語(verbe)への冒瀆として呪詛の対象となる。聖書においても、あらゆる伝統的な法においても然り。

 

 たとえば、息子をもうけた女性の母親と結婚する場合、どうなるかというと……。

 

 フロイトじしん、これに類した世代的なずれを被っている。

 

 それはエディプス状況の解離を来たし、病理的な影響をもたらす。

 

 たとえ一人の人格において具現されるばあいであっても、父の機能は想像的な関係と現実的な関係をその人格のうちに圧縮し、それは父の機能の本質である象徴的な関係とのあいだにつねにずれを維持している。

 

 象徴的機能の支えは父の名において見出されなければならない。古来、父の名が父の人格を法の形象と一致させている。分析においても三つの審級の「とりちがえ」を避けねばならない。転移においてそれが重要になる。

 

 ラブレー天文学的な規模にひろげてイメージしたような負債の運動が、言葉(verbe)の徳によって可能になる。ラブレーがつづった名の逆転は、人間の神秘についての人類学的知見を先取りしている。

 

 ハウとかマナは、そのような負債のことである。それが交換の運動を永続化する。レヴィ=ストロースはゼロという象徴において<ことば>(Parole)の権能を代数学的記号に還元している。