アライグマ、ツバメ、その他大勢:「ローマ講演」第二部を読む(その3)
Ecrits, p.273~
マッセルマンの著書においては、犬に条件反射によって期待される肉のかわりにじゃがいもをだして神経症にする「実験」が紹介されている。
同じような状況で、不実な恋人の手紙を引き裂くようにメニューをしめす紙を引き裂くアライグマもいるという。
信号を象徴に帰す手口は以上のごとし。その逆も推してしるべし。
ヒギンスは、光の投射とともに口にされる「眉をひそめなさい」(contractez)という条件付けの命令に置き換えられた鈴の音(「観念的象徴」ideal-symbol)にたいする反応を生理学的反応に帰している。
被験者が marriage contract とか、bridge-contact といった言葉にも反応したのか、あるいは、最初の音節(contr…)だけでも反応したのか気になるところだ。くだんの説のただしさはその結果しだいである。反応が条件づけの言葉の「意味」に関係するかのしないのかがその結果あきらかになる。
「観念的象徴」という発想は、しるしざすもの(シニフィアン)としるしざされるもの(シニフィエ)の区別を無視している。
ある国語(langue)の構成要素を、言語構造(langage)をかたちづくる一要素としてとりだすことができるということに著者の注意を喚起したい。
言語活動の各要素がもたらす効果は、言語活動という体系の存在と不可分だ。言語活動の体系は主体にさきだって存在する。
このことは言語活動に固有の機能である。
小学校でならう文法的な範疇と現実との字義どおりの対応を素朴にも信じる著者はこのことに気づいていない。
精神分析家もこの信仰におちいっている。自我心理学は、フロイトの発見を無視している。象徴的な秩序への関係が人間の本質を規定しているという発見である。
言語のなんたるかをしるには、自我心理学の本を読むより、くだんのアライグマを精神分析するほうがよほど有益である。
プレヴェールの「財産目録」におけるアライグマの象徴的機能を想起すべし。われわれの愚かな同輩以上にアライグマはわれわれにちかしい。自然科学上の分類はあてにならない。分類学は人間中心主義(humanisme)に基づいており、すべてを人間の同類にしたてる。
象徴的な対象(物体)はその重要性を使用価値から別の価値へと移動させる。法と言語活動はそこに位置づけられるのか。否、おそらくそこにはまだない。
ツバメたちのリーダーが象徴的な魚を呑み込んでツバメによるツバメの搾取をはじめたとしても、ツバメの社会をうみだすにはまだなにかが欠けている。
そのなにかこそ、象徴を象徴たらしめ、言語活動をうみだすものだ。使用価値から解放された象徴的な物体は、「いま、ここ」という条件から解放された語(mot)になるために、素材(物質)の質をともなわない(音声的)差異、「消失する存在」としての差異において機能する。そこにおいて象徴は概念としての永続性を獲得する。