lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ひとの法(のり)はことばの法である:「ローマ講演」第二部(その2)

 

 Ecrits, p.271~

 

 機知におけるいじょうに、個人の意図が主体の大発見(trouvaille)によってあからさまに凌駕される状況はない。機知におけるいじょうに、個人と主体のちがいがあきらかになる状況はない。というのも、その発見においてじぶんとなじみのないものがあらわれるからこそ機知は快をもたらすのだから。機知にはつねに第三者が想定されており、又聞きであってもその効果をうしなわない。「おかしみをうみだす言葉の技巧があかるみにだす両受体(ambocepteur)の照準を<他者>の場にあわせることがおこなわれている」[フロイトによれば、滑稽なものとはちがい、機知を言った本人は笑えない。機知の生産にともなう抑圧の解除はエネルギーを消費する「仕事」だからだ。機知が本人に満足をもたらすのはもっぱら聞き手の笑いを経由してのことである。ここで「両受体」といわれているのは、機知がそなえているこうした双方向性をさしている]。

 

 精神(エスプリ)の脱落(オチ、chute)のただひとつの理由は、真理の月並みさがあらわにされるからだ(s’expliquer)。

 

 このことは目下の問題にかかわっている。象徴の言語[langue]の研究が、1920年代よりこのかた軽視されていることは、精神分析の対象の変化に原因をもつ。表層的なコミュニケーションを重視する傾向はろくな成果をもたらしていない。

 

 ことば(parole)がことばの意味(論理実証主義のいう「意味の意味」)をくみつくすのは、発話行為においてである。それゆえ、「さいしょに行いがあった」というゲーテ的転倒それじたいを転倒して、さいしょにあったのは言葉(verbe)であり、われわれはこの創造を経験しているとしよう。とはいえ、この創造をつねに更新しつつ継続するのはわれわれの精神(esprit)である。われわれがこの行為にもどってくるのはもっぱら、この行為によって前進することによってである。

 

 それがすすむべきである道であるとわかっているから、われわれはそれをこころみる。

 

 なんぴとも法を知らないとはみなされない。ある法典にユーモアたっぷりに書き込まれたこの一節は、精神分析がもとづき、精神分析が確証する真理をのべている。なんぴとも法を知らないではいないのだ。というのも人間の法は言語(langage)の法であるからだ。これはひとをあざむく合い言葉によって誠意のない贈与がもたらされることをおそれたダナオスのむかしからかわらない。[脚注でカナック族の専門家である民族学者モーリス・レナルトへの参照が促されている。フィンクによる英訳書が示唆するところによれば、この段落におけるギリシャ神話と民族学とのオーバーラップはマリノフスキーの著書『西太平洋のアルゴー船』に由来するようだ。アルゴー船は島々の交通を可能にするかぎりでコミュニケーションをつかさどる。ダナオスはさいしょの船大工。]

 

 合い言葉と贈与との恣意的な結合(「有益な[救いとなる]ノンセンス」)によって法[則]につかさどられる言語がはじまる。この贈与がすでに象徴である。象徴とは契約をいみする。贈与は、この贈与がしるしざされるもの(シニフィエ)として構成する契約をしるしざすもの(シニフィアン)である。象徴的交換の対象は、なにも注げない壷、重すぎてもてない盾、すぐに枯れてしまう芽、大地に突き刺さり抜けない鎌のようなものであり、使用価値をもたない余計なものである。

 

 シニフィアンのいみの無化(neutralisation)が言語の本質の一切なのであろうか。だとすれば、言語のはじまりは、アジサシの求愛行動において嘴から嘴へと受け渡される魚に具現化されている。だとすれば、その魚が祭りのように集団でからだをゆさぶるための道具とみなす動物行動学者は、象徴をただしく理解しているということになる。

 

 われわれは人間の領域のそとに象徴的なふるまいの起源をみいだそうとしているのではない。とはいえ、マッセルマンのように、記号の製造にその起源をみいだそうともしていない。わが協会の編集委員らにおぼえのめでたいマッセルマンの著書にしばし立ち止まるとしよう。