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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「ローマ講演」を読む(その12)

 

 Ecrits, p.263 三段落目~第一部の末尾(段落ごとのレジュメ)

 

 フロイトの著作の断片をつなぎあわせてつくられた発達段階という神話は、霊的な神話であり、霞のような観念によってくみたてられていて、起源という神話をよみがえらせているだけだ。すぐれた分析家たちが性器愛なるものを説明しようと苦心している。こういう異様な観念は「不明」(non liquet)とでも分類しておいたほうが無難であり、でまかせの概念である。

 

 精神分析家にとってことば(mots)の力が重要なのは、ごまかしのためにことばの力を利用するためではない。

 

 主観[主体]という問題をあらわす術語は貧弱だ。<自然>と<恩寵>をめぐる昔の論争における術語とくらべてみれば厳密さの欠如はあきらかだ。[脚注:ジャンセニスムにおいてきわまるキリスト教アポリアパスカルの賭けが精神分析にとってもつ意義]このような貧弱さゆえ、こうした術語を使うことの心理学的・社会学的な効果は推して知るべし。ロゴス(logos)の諸機能をより適切に評価することで、ことばを神秘化のためにつかう余地はなくなるだろう。

 

 ラ・ロシュフーコーの「恋というものについて耳にしたことがなければ恋をしなかっただろう人たちがいる」という箴言は、恋が幻想であるというロマン主義的ないみにとるべきではなく、むしろ恋[という現実]がことばに負うところが大きいといういみで解すべきだ。

 

 フロイトの著作をじっさいにひもといてみれば、かれが本能の理論を二次的であてにならないものとみなしていたことがわかる。患者の歴史の事実に照らせば本能の理論などなんのいみももたない。狼男の症例を要約するに際してフロイトがつかった「性器的自己愛」という語は、かれがリビドーの諸段階の秩序[順序]に無頓着であったことを示している。さらに、フロイトがその症例で本能の葛藤に言及したのは、本能の葛藤という観念と手を切るためであり、「わたしは去勢されていない」という象徴的孤立(この孤立において主体が示される)のなかに、患者の異性愛的選択がはりついたままになっている強迫的(compulsionnel)な形態をみとめるためであるが、その選択は、原光景の想像的母胎に引き戻された「自我」がとらわれる同性愛的な選択に対抗するものである。主体的葛藤とはじっさいにはこのようなものであり、そこで問題になっているのは、主体性なるもののさまざまな展開(péripeties)にほかならず、それゆえ「私」が、宗教的な教義あるいは理屈っぽい解明(Aufklärung)にゆだねられて、「自我」に勝ったり負けたりすることになる。この葛藤の帰結を、フロイトは分析家としての職務によって患者にたいして実現させたが、その後、この帰結をエディプス・コンプレックス弁証法において説明することになる。

 

 このような症例の分析において、完全な愛の実現が自然の帰結ではなく、恩寵の仕業であることがわかるのだ。つまり、間主観的な合意の帰結であり、このような合意は、この合意を支える引き裂かれた自然にたいしてみずからの調和をおしつける。

 

 理解をこえたこの主体はいったい何なのだと諸君が叫びたくなるのもわかる。われわれはすでに、個人によって経験されるあらゆることは主観的=主体的(subjectif)であるということをあたりまえのこととしてしっている。

 

 subjectif という語の二つのいみあいのちがいに注意すべきだ。主体は個人が「主観的に」経験するものをはるかにこえ、主体がたどりつくことのできる真理と同じくらいはるかまでたどりつく。この真理はくだんの「あたりまえのこと」から引き出されるのだ。患者の歴史の真理は、患者のわりふられた役柄[=主観]のうちにおさまるものではないが、じぶんにあてがわれた台詞しか知らされていないきびしい状況にあって、その真理のうちにじぶんの立ち位置がマークされている。ひいては頁の順番がめちゃくちゃな役立たずの台本のなかに書かれている。

 

 主体の無意識は他者の言説である。このことは、フロイトがいわゆるテレパシーについやした考察のなかにもっとも明確にあらわれている。精神分析の経験においてかかわってくるかぎりでのテレパシーにだ。主体の発言(propos)が、かれがしらされていないけれども精神分析家を対話者とする別の経験の諸関係においてつねに活動している事実と一致する。この一致はことばのうえでの類似のばあいもあれば、アクティング・アウトというかたちをとることもある。これは言説のコミュニケーション・ネットワークにおける共鳴であり、仔細にしらべれば、日常生活においても同じ事態があきらかにできるであろう。

 人間の言説の偏在は、いつの日かその言説の文面の自在なコミュニケーションに公然とくみこまれるかもしれない。前者がいま以上に後者と合致するようになるということではないが、そこが精神分析の経験の領野となる。精神分析の経験が二者関係であるのは外見的なことにすぎない。理論においても実践においても、たんに二者の関係であるのではない。