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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「ローマ講演」を読む(その10)

 

Ecrits, p.256 第三段落〜 p.259末尾(段落ごとのレジュメ)

 

 各瞬間の連続性はいったん解体される。過去の既往症との連続性は、現実のレベルにおいてではなく、真理のレベルにおいて検証されるべきである。充実したことばが過去の偶然に意味をあたえ、それを必然化する。

 

 「狼男」のいりくんだ分析においてそれはあきらかである。

 

 原光景の正確な日時を特定することが問題なのではなく、分析の各々の時点での事後的な「出来事の再主体化」(複数形)が問題なのだ。原初的な出来事について、想起(「理解するための時間」)を待つのではなく、能動的に決定する契機(「結論するための時間」)をフロイトは重視している。

 

 「理解するための時間」と「結論するための時間」は、教育分析においても重要である。

 

 他者(l’autre)にさしむけられたことばによって、みずからの歴史を主体が引き受けること(assomtion)。この方法をフロイト精神分析と名づけたのだ。それは権威筋のいうように1904年(「神経学雑誌」に仏訳が掲載された)のことではなく、1895年のことであった。

 

 催眠によって症状を再現することはもはや問題にならない。

 

 精神分析の作用はその相対性を特徴とする。これは精神分析の手段の性質による。

 

 精神分析の手段はことばである。精神分析の領域は具体的な言説である。精神分析の作用は現実界において真理を出現させるかぎりでの歴史(物語)である。

 

 分析に入る患者はあれこれの規則にしたがうのではなく、しぜんに構成される対話(interlocution)という状況をうけいれる。聴き手がまごついて(interloqué)いようとかまわない。患者の談話(allocution)はひとりの応答者(allocutaire)をふくんでいる。[1966年の注:たとえだれにともなく(à la cantonade)話していても、かれは<他者>にはなしかけている。]つまり、話し手(locuteur)(ピション)が間主観的なものとして構成される。

 

 話し相手の応答をふくむ対話にもとづいてこそ、主体の動機が再構成され、その連続性が実現するのだ。そのかぎりで主体の歴史は間主観的なものである。

 

 意識を眠らせるくすり、「真理の血清」のおかげで、主体の歴史が予言される。確実に誤解をうみだすという言語に内在的なアイロニー。とはいえ、患者のことばの記録そのものは、それじたい患者にとって疎外されたことばにすぎず、精神分析とおなじ対話の効果をもつものではない。

 

 第三項としての無意識が関与するひつようがある。無意識は、意識的な言説の連続性を構築するために患者の自由にはならない個人間の具体的な言説である。

 

 無意識という観念を個人的な現実に帰すことはできない。これは無意識の逆説だ。無意識は思考であるが、個人の思考なのではない。フロイトもこの逆説ゆえに sit venia verbo (こういう言い方をお許し願いたし)とことわっている。環探しの環のように、口伝てに交わされることで主体はみずからのことばの真理をうけとるのだ。

 

 論理学にくらい心理学が申し立てる無意識的思考ということばのうえでの(in terminis)矛盾にたいする反論は、精神分析のあつかう領域の特殊性を考慮することで無効化する。精神分析においては、言説という現実は[外的現実から]自律した現実なのだ。精神分析家の「それでも地球はうごく!」は、その影響力においてガリレーのそれと肩をならべる。それは事実についての経験ではなく、心的な経験(experimentum mentis)なのだ。 

 

 無意識は、主体の歴史の空白の頁、あるいは嘘でぬりたくられた頁である。検閲された頁だ。しかし真理をふたたびみいだすことはできる。すでに別のところに書き込まれているのだ。すなわち、

 

――記念碑に。記念碑というのはわたしの身体である。身体において、神経症のヒステリー的な核となるものが刻み込まれる。ヒステリーの症状は碑文のようなもので、ひとつの言語の構造をしめしていて、ひとたび解読されるや消滅してしまう。

――古文書の資料に。古文書とおなじように、その由来をしらないことにはとりつくしまもない幼年期の記憶である。

――意味論的な特徴のうちに。主体に固有な言葉遣いのこと。

――伝統や伝説。主体の歴史がつたわる英雄詩のうちに。

――歪曲の痕跡のうちに。全体との兼ね合いで部分が必然的に歪曲を被るが、これは注釈によっていみを復元できる。