lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「ローマ講演」を読む(その9)

 Ecrits, p.254 後半~

 

「いま、ここ」と既往症、強迫神経症的な主体内性(intrasubjectivité)とヒステリー的な間主体性(intresubjectivité)、抵抗の分析と象徴的解釈の対立から、「充実したことばの実現」がはじまる。

 

充実したことばの実現がうみだす関係を吟味しよう。アンナ・Oの「おしゃべり療法」が病因となる外傷的出来事を発見させた。その出来事が言語化(mise en parole)されれば症状は解消する。これは意識化ではない。心理学は言語化(verbalisation 調書作成)をたんなる息の音(flatus vocis)としかみなさない。催眠において意識と言葉は分離している。

 

患者がなにかをおもいだしたかどうかはわからない。たんに出来事を語るのだ。出来事をことばに移したのだ。叙事詩(épos)に仕立て、患者の人格の起源を現在形で語るのだ。叙事詩の朗唱は昔の国語(langue)による、あるいは外国語による、かつての言説をふくんでいる。俳優はそれをいまによみがえらせる。とはいえ、それは間接話法のようなもので、物語の流れのなかに括弧にくくられて出てくる。それは合唱隊と観衆のいる舞台上で読み上げられる。

 

そこでたちあらわれるのはかつてそうであったようなじぶんの存在であるが(ハイデガー的にいえば gewesend)、そこでは過去のさまざまな時点におけるじぶんがひとつになっている。それゆえ、どの時点のじぶんがよびだされるかに応じて、別の物語になる。[rencontre という後年の重要なキーワードがつかわれているが、ここではおおよそこのようなことが述べられているのであろう]。

 

 ヒステリー者のあかす現実の真偽は問題ではない。ことばのなかでうまれる真理が問題なのだ。

 

 過去のこととは言い条、それがあかされるのはいまの現実においてなのだ。現在において過去の力(潜在力 puissance)を証言できるのはことばだけである。[「鏡像段階」論において、転移はいまだ過去の反復ととらえられているが、ここではそのかぎりではない。これが明確に表明されるのは『転移』のセミネールにおいてである] つづく