lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「ローマ講演」を読む(その8)

 Ecrits, p.249 ~254前半 段落ごとのレジュメです。

 

 ……ではその「仕事」とはいかなるものか?

 

 徹底操作(durcharbeiten)という翻訳者泣かせの(「困憊する試練」)概念が想起され、ボワローの『詩法』の一節が引用される。「なんども仕事にたちもどり、[製作を]再開せよ」(Cent [正確には vingt] fois sur le métier, remettez… [votre ouvrage.] ) 。

 

 欲求不満・攻撃性・退行という三項図式、情緒性(affectivité)、会話の不能(「知性化」)といった概念が[想像界にぞくするものとして]退けられる。

 

 欲求不満は、沈黙からではなく空虚なことばへの返答からうまれる。誠実な絵画を「製作」しようとすることで、主体は「存在」をうしなってしまう(dépossesion)。依然として、想像的な次元にはたらきかけることが否定されている。想像界(自我)の「補正」(rectification)「防衛」「自己愛的な抱擁」は、「本質」にも「確信」にも導くことはない。このような「仕事」は、他人(un ature)の肖像画を描いているにひとしい。

 

 理論家たちは自我を欲求不満を支える力としているが、まさに自我こそが欲求不満の本質なのだ。

 

 想像的な攻撃性は、欲望の満足をさまたげられた動物の攻撃性とは関係がない。こうしたアナロジーは、より不快なアナロジーを覆い隠す。死の欲望によって「仕事」の欲求不満にたいして反応する奴隷の攻撃性というアナロジーだ。

 

 抵抗の分析とよばれるものはこうした反応にかかわるものである。

 

 患者の過去によって現在を「因果論的に」説明しようとする分析も恣意的である。

 

 ぎゃくに「いま、ここ」に分析を限定する行き方は、想像的な意図を象徴的な関係からきりはなさないことにメリットがある。

 

 「わたし」(自我)に欺かれてはならない。

 

 患者のおもてむきのしぐさに欺かれてはならない。

 

 患者の否定的な反応を招くからではなく、患者を想像界への「疎外」にとどめおくからだ。

 

 ぎゃくに患者の確信を宙吊りにするべきである。

 

 言説が空虚にみえるのはことばどおりに理解するときだけである。マラルメのすりへった貨幣の比喩がしめすとおり、ことばはたとえおもてむきのいみをうしなっても貨幣の価値をもつ。

 

 なにもつたえなくても、言説はコミュニケーションの成立をあらわしている。おもてむきのいみを否定しても、ことばが真理をうみだすことを言説はしめす。

 

 精神分析家はそのことをしっている。間投詞、言い間違い、嘆息にもふかいいみがある。

 

 そうしたものは患者の言説の区切りとしてやくだつ。セッションの中断も「結論する時間をうながす」区切りのいみをもつ。

 

 このように、患者のことばをとおして患者の幻想にアプローチすることができる。その手だてが転移である。

 

 直観主義的あるいは現象学的心理学のいうような患者の現実なるものはなかみのないお題目だ。

 

 分析家は監督者のやくわりを担おうとすべきではない。

 

 監督される者としての患者は主体のメッセージを歪めるフィルターであるから。

 

 ぎゃくに分析家じしんの立場をみうしなってしまうことにもなる。

 

 平等にただよう注意は、患者のことばの彼方にある対象をみいだすための方法ではない。

 

 そのような対象は想像的なものにすぎない。聞かないための耳をもつこと。

 

 患者が空虚なことばで語っているのはかれに似たべつのひとについてである。そのかぎりでかれはみずからの欲望の引き受けていない(assomption)。ことばは技法においても理論において軽視されてきた。精神生理学的な要素は精神分析運動にはずみをつけるが関の山だ。分析の運動を活発化させることを精神分析の自己目的とするのであれば、あるしゅの技法がうまく機能しているかのような虚構に身をゆだねるにしくはない。