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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「ローマ講演」を読む(その7)

 ぜんたいで三部構成となる「ローマ講演」。第一部は、「主体の精神分析的実現における空虚なことばと満ちたことば」と題されている。

 

 精神分析は、治療においても分析家養成においても研究においてもただひとつのメディウムしかもたない。患者のことばである。あまりにもあきらかなことなので、これをおろそかにするいいわけはたたない。ところで、どんなことばもこたえをよびおこす。

 こたえのないことばはない。そのことばが沈黙にしかいきあたらないときでさえ、聴き手がいるかぎりそうなのだ。精神分析におけることばの機能の核心はここにある。

 とはいえ分析家がことばの機能がこのようなものであることを知らなくても、分析家へのよびかけのつよさはかわらない。さいしょにききとどけられるのがうつろな響きであったとしたら、分析家はこのうつろさのなかによびかけをききとることになり、ことばをこえたところに、このうつろさを埋める現実をさがすことになる。

 かくして分析家は、主体[患者]のふるまいを分析し、主体が口にしていないことをみつけるのだ。しかし、このふるまいから告白をひきだすためには、主体がそれについて話さなければならない。主体はそのときことばをみつけるが、そのことばは、おのれじしんの無からうけとるこだまをまえにして、みずからの沈黙を破壊することにたいする反応としてでてきたことばだけに、額面どおりうけとるわけにはいかない。

 みずからの言うこと(dire)の空虚のむこうがわへの主体のこうしたよびかけとはなんであったのか。原則として真理へのよびかけである。このよびかけのむこうに、きわめてささやかなもろもろの欲求(besoins)へのよびかけがゆらめいているのがわかる。しかしさいしょは空虚[へ]のよびかけというかたちをとる。他人にしかけられた誘惑というあいまいな裂け目のなかへのよびかけだ。そのよびかけの手だてとなるものに主体はうぬぼれをこめ、ナルシシズムのかぎりをそそぎこむ。………

 

 つぎの段落(原書248頁第四段落)が言わんとしているのは、精神分析を「内観」(introspection)に帰すことはできないということであろう。

 

 つづく第五段落は、『エクリ』出版時(1966年)に書き足された。精神分析においては「内観」は必然的に袋小路に迷い込むといった内容。

 

 第六段落。「モノローグの幻影(mirage)」、「都合のいいつくりばなし(fantaisies accommodantes)」が活気づける「うぬぼれ(jactance)」。これらは想像的(イマジネール)なものをさしていよう。これが「いいのがれのきかない言説(discours)によるしいられた仕事」に対置される。こうした「言説」は、心理学者や心理療法士に「自由連想」という名でよばれている。「自由連想」の語がギユメで括られているのは、「自由連想」の強制的な性格を強調したいからであろう。「自由」などではなく、「仕事」だというわけだ。

 

 第七段落。仕事であるかぎり、修行がひつようである。ここで分析家の養成、分析家の資格が話題にされる。

 

 つづく