lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

超訳!「ローマ講演」(その6)

「序論」のつづきからさいごまで。

 

 アメリカでは、精神分析が、社会的適応、行動のパターン、「人間関係 human relations」という観念にふくまれる客観化についての学説にねじまげられてしまっている。「人間工学 human-engineering」とは言い条、そこからは人間という対象が排除されている。

 そういう立場にくみすることで、無意識や性といった精神分析の経験をもっともリアルにつたえる言葉がかすんでしまっている。無意識や性といった言葉は、そのうち口にされることさえなくなるだろう。

 われわれとしては形式主義や商業主義に加担することはできない。形式主義や商業主義という言葉はわれわれのグループの宣言文でも言及し、これをしりぞけるべきものと釘をさしている。偽善者と商人には共通点がある。この共通点のゆえに偽善者も商人も言葉を苦手とする。とくに商売の話をするときには、むなしく長広舌をふるったあげく、なんの結論もでてこない(“talking shop”)。

 権威(magistère)を支持するという口にできない動機があるとき、言葉を支配(コントロール maîtrise)するのはむずかしい[magistère とmaîtrise は語源を同じくする]。教育(un enseignement)で問題になる言語の運用能力というレベルでの「支配」でさえ。われわれがそのことに気づいたのは、かつてある一件で優越性を維持するためにうわべ(forme)をとりつくろうためにちょっとした教え(une leçon)がひつようとされたときのことである。

 そんなわけで、うえに列挙した最前線の領域におけるいくたの試練を経たのちに、この陣営がいまだ伝統的な技法への愛着を再確認しているというのは不可解である。この不可解さは、この技法を形容するために正統的(orthodoxe)という語が伝統的(classique)という語に置き換えられていることからもわかる。精神分析の学説についてなにもいうことができないので、婉曲的な表現に訴えているのだ。

 技法を根拠づけるさまざまな概念を知らなければ技法を理解することはできないし、ただしく適用することもできない。こうした概念がじゅうぶんないみをもつのは、こうした概念が言語の領野へと方向づけられるときだけであり、ことばの機能にそくして秩序だてられるときだけである。

 フロイトの概念を扱うには、ぜったいにフロイトを読むひつようがある。その概念が日常的に使われる言葉と同じ言葉であるばあいでさえ。

 本能についてのフロイトの理論にまつわる曲解は記憶にあたらしいところだ。この理論がふくむメリットを理解していない著者によるものであるが、フロイトはこの理論が神話的なメリットをもつとはっきりのべている。この著者がこのことを理解しているはずはない。この著者はマリー・ボナパルトの著作をつうじてこの理論を知ったのであり、マリー・ボナパルトの著作がフロイトのテクストと同じものであるかのように何度も引用しているのだから。しかも読者にそれをことわることもしていない。おそらく読者がフロイトとマリー・ボナパルトを混同しないだけのセンスをもちあわせているとあてにしているのだろうが、この著者がマリー・ボナパルトをさえ理解しているかどうかはあやしいところだ。単純化と当て推量、類推と仮説を駆使して、この著者は誤った前提を同語反復的にくりかえしているだけだ。つまり、くだんの本能はせんじつめれば反射弓[慣性]のことだという仮説である。性感帯のあいだをリビドーが移動することの発見から、死の本能が快原則の究極のかたちであることについての超心理学的なくだりにいたる[フロイトが築き上げた]複雑な構築物が、受動的な性愛本能と活動的な破壊本能との単純な二項図式にすりかえられてしまっている。皿回しの芸が失敗して、積み上げられた皿のふぞろいな破片だけが芸人の両の手に残っているといった体である。性愛活動の受動性は、しらみをさがしだすような作業になぞらえられている。誤解をとことんまでつきつめるこの著者の業だけは特筆にあたいする。その業が意図的なものであるかどうかはべつとして。