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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「ローマ講演」を読む(4)

 

序論(INTRODUCTION)

 

 まず、リヒテンベルクとロバート・ブラウニングからの引用が掲げられている。いずれも「太陽」にかんする一節である。

 

 そして冒頭の一文。

 

 Tel est l’effroi qui s’empare de l’homme à découvrir la figure de son pouvoir qu’il s’en détourne dans l’action même qui est la sienne quand cette action la montre nue.

 

 みずからの能力のあらわれを発見するときにひとをおそう恐怖のおおきさのゆえにひとはそこから顔をそむけ行動ににげこむが、その行動がくだんの能力のあらわれをむきだしのかたちで示しているならば、この行動はかれじしんの意志による行動なのだ。

  精神分析とはこのような行動である。フロイトのプロメテウス的発見はこのような行動であった。フロイトの学派で養成された分析家のなかにもこのような行動をおこなう者はいる。

 ことばと言語活動への関心にたいする嫌悪が長年表明されてきた。この嫌悪は精神分析の目的と技法の転換を促しているが、それと精神分析の治療効果がよわまっていることとの関係ははっきりしない。理論および技法における対象の「抵抗」の効果を強調する傾向は、それじたい、分析の弁証法の吟味にかけてみなければならない。分析の弁証法はそこに主体が不在である弁解[alibi du sujet]を認めるだろう。

 精神分析という運動の論点[topique]を整理してみよう。われわれが科学的活動と称している文献を検討するに、精神分析の現在における問題は、あきらかにつぎの3つのかたちで示される。

 (A)想像的なものの機能。端的にはさまざまな幻想の機能。児童心理学および前言語的な構造化のアプローチがこの分野をリードしている。このアプローチの成果は、解釈をとおしての幻想にたいする象徴的処罰というかたちで再評価されている。

 (B)リビドー的対象関係の観念は、治療の進展についての考えを刷新し、治療の実践に暗黙のうちに影響している。精神分析的方法を精神病にまで拡大しようとすることをふくめ新たな観点がうまれている。精神分析は実存的現象学や慈善活動にまでひろがりをみせている。そこでもやはり象徴化という技法的な要への回帰がみられる。

 (C)逆転移の重要性。およびそれに関連して分析家の養成の重要性。治療の終了という難点がクローズアップされている。これは教育分析の終了のタイミングとも関係する。ここでも意見が割れている。分析家の存在を重視する立場と、無意識的動機を重視しない立場が対立している。

 以上、三つの問題には共通点がある。ことば(パロール)という基盤を放棄する誘惑にさらされていることだ。それも、言うことのできないものにちかく位置するだけにことばの使用がかつてなくためされている領域において。すなわち、子育て術、保育活動[l’aide samaritaine]、会話の習得[maîtrise dialectique]においてである。しかも、この領域では、みずからの言語[langage]を放棄して制度化された言語にとびつくわりに、みずからの無知をおぎなうためになにをすればよいかがわかっていないので危険はますますおおきい。

 幼児における象徴化の効果についての研究が必要だ。子供をもつ精神分析家たち[les mères officiantes]は、言語[langues]の混乱を避けることができない[「母国語」une langue maternelle をふまえている]。フェレンツィはこうした母国語の混乱のうちに子供と大人の関係を統べる法[則]を発見している。

 賢者たち[政敵らを指すものだろう]が完璧な対象関係を形成するかどうかはあまりあてにならない。専門家にふさわしくないぼろをだすがおちだ。

 こうした帰結[effets]において精神分析家は現代の英雄の列につらなる。途方にくれてなしとげられた付け焼き刃の偉業がしめしているとおりだ。このありさまは、ことばの機能という、分析家が得意とする研究にたちもどるだけでは修正できない。

 しかしフロイト以来、ことばの機能は中心的な領野[畑  champ]でありながらも未開拓な領域である。フロイトじしん、あまりこの領野の周囲を散策していない。子供のリビドーの諸段階を発見したのは大人の分析をとおしてであり、ハンスの分析も両親にゆだねられた。パラノイアの妄想における無意識の言語を見定めたのはもっぱらシュレーバーの手記(「魂の破局からながれでる溶岩」)をつかってだった。ただし手記の弁証法と手記の意味の解釈[tradition]は見事なものだ。

 マイスターの座が空位なのは、マイスターの消滅によるものではなく、マイスターの著作のいみがしだいにすりへっている[oblitération]ことによるものだ。この座をめぐって起こっている事態がその証拠だ。

 そこではひとつの技法がさえないスタイルによって、優柔不断で不透明なスタイルによって、伝達されている。空気を入れ替えようとするどんな批評にもびくびくしている。儀礼的なまでに形骸化したさまはまさにフロイトが考察した強迫神経症宗教的儀礼さながらである。

 この連想は、この一派の文献をみるとさらにはっきりする。それらは袋小路にまよいこんでいるような印象をあたえる。術語の由来に無知なので、一貫性をたもつのに苦労し、一貫性を保とうとする努力が、ぎゃくにこの無知[méconnaissance]をきわだたせてしまう。

 分析的言説の堕落の原因を究明するために精神分析の団体を精神分析してみることは理にかなっている。

 分析的行動の意味の喪失について語ることは、症状をその意味によって説明することとおなじくらいもっともであると同時に、それとおなじくらい虚しい。この意味が認識されていないのであってみれば。しかしこの承認[reconnaissance]がなければ、精神分析の行動は仲間うちでは[au niveau où (l’action) se place]攻撃的としか受け取られないし、分析家の団体を安心させるような社会的「抵抗」がなければ、みずからの活動にたいする許容度の限界は――この活動は現在のところは認められてはいないまでも「受け入れられている」――分析家の頭数だけによってきまることになる。かれらの頭数だけが社会的に重きをなす基準なのだ。(つづく)