lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「ローマ講演」を読む(その1)

*「精神分析におけることばと言語活動の機能と領野」( Fonction et champ de la parole et du langage en psychanalyse, 1953.)

 

 これまでのラカンの探究の中心にあった心像についての言及はわずかで、問題意識は言語のほうに大きくシフトしている。ここまで年代順にラカンの軌跡をたどってきたわれわれの印象からしても、この「転回」は劇的といえる。話題は多岐にわたり、同じ話題が時を置いて何度も繰り返される。垂れ流し的に続くとみえるこの長大なテクストになんらかの秩序を見出すことができるだろうか。この論文のなかから殺し文句的なフレーズを二十ほど拾い上げ、ラカンの「転回」を確認したつもりになることは容易であり、すでにさんざん実践されてきたことでもあるが、われわれは以下、ややくわしくこの論文にたちどまり、この論文をわれわれなりに位置づけなおしてみたい。それに先立ち、いくつかの手がかりを確認しておく。

 

 中心的な主題が言語にあることはうたがいないが、この論文において話題にされる言語とは、まずもって隠喩としての言語(ランガージュ)である。レヴィ=ストロースは家族制度を言語構造に譬えている。L’inconscient est structuré comme un langage. という有名なラカン的テーゼ。わが国の注釈者たちによって、これまでこの comme は、「として」とも「のように」とも訳されてきた。いずれにしてもそこでは言語(ランガージュ)が隠喩として前提されていることにはかわりがない。言語は構造なるものの隠喩である。言語構造はかずある構造のうちのひとつであるのではなく、構造とはすぐれて言語構造なのだ。ラカンにあって構造とは端的に言語「である」。

 この論文における言語はまた、精神分析のセッションにおいて聞かれる具体的なことば(パロール)である。ラカンの筆致はときとして言語的なコミュニケーション(分析は会話ではないとしても)を人類学的な交換に重ねあわせようとしているとおもわせる。さらにはこれまで注目されてこなかった「反響」「壁」という隠喩の重要性。

 

 鏡像段階論において、すでにラカンは人間の固有性を動物への言及をとおして規定しようとしている。この論法は「精神分析におけることばと言語活動の機能と領野」においても継承される。本論文では、人間と動物の弁別にかんする生物学的議論が、自然と文化の分節をめぐる人類学的な議論との緊張感のなかで探究される。

 

 ラカンはこの論文のなかでフロイトの著作の全体を視野に入れている。五大症例にはじまり、夢、日常生活の精神病理、機知についての偉大な著作をへて、メタ心理学的論文からさらに文明論的著作・文学論にいたるまで。この網羅性は、いうまでもなくフロイトへの回帰という身振りを演出するための意識的な戦略である。しかし、この論文が最終的に接近しようとしているのは、唯一言及されていない「モーゼと一神教」ではなかろうか。<象徴的なもの>を定義するに際し、ラカンは「大いなる負債」の観念に訴えている。これは「モーゼ」のフロイトが系統発生に求めざるをえなかった真理のラカン的ヴァージョンにほかならない。このあたりの議論におけるラカンの文体の異様な高揚ぶりはなにをしめしているのだろうか。

 

 

 さて、論文の冒頭で、ラカンは「1952年の精神分析研究機関なるものの銘句として選ばれた引用」を引いている。

 

 特に忘れてはならないことは、胎生学、解剖学、生理学、心理学、社会学臨床医学、のあいだの区分は自然のなかには(dans la nature)存在していないこと、ただひとつの学問領域しかないのだということである。すなわち、神経生物学であるが、われわれにとってはそこに「人間の」(humain)という形容詞をどうしてもつけくわえなければならないことが観察からわかる。(以下、引用は『エクリ』所収の竹内訳をベースに、随時訳語を変更させていただく)

 本作はパリ精神分析協会(SPP)の分裂にともなうフランス精神分析協会の立ち上げにあたってのマニフェスト的ないみあいにおいても重要である。『精神分析著作事典』のアスーンがいうように、その会長の手になる新たな学派のいわば「方法序説」なのだ。このエピグラフラカンと袂を分かった一派による「精神分析研究機関」のマニフェストであり(サッシャ・ナシュトの手になるもの)、人間のこころを生理学的過程に還元しようとする生物学主義が皮肉られている。