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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

エディプス批判の書としてのドラ症例:「転移に関する私見」

*「転移に関する私見」(Intervention sur le transfert, 1951)

 

 1951年のロマンス語精神分析者会議での講演。『エクリ』所収。

 

 「ただ分析家がそこにいるということだけですでに対話の次元が生じている」。転移とはこのような状況である。転移とは「目に見えぬまま進行し」、その効果はドラ症例のフロイトが言うごとく「論証できない」。「どんな無責任性が、さらにどんな脈絡のなさがたまたま規則のとりきめによってこの言説の原則に課せられることになっても、それらはそこでは、ある種の堰を確実に越えさせるために水理学者がつかう策略にすぎないのであって(ドラ症例)、流れは、その流れに固有なある重力、しかもそれは真理という名で呼ばれる重力の法則にしたがって流れつづけるにちがいないことは明白である」。「真理。言説が現実へ導き入れるその動きの名がそれなのだ」……。「犯罪学における精神分析の機能にむける序説」につづき、「真理」がキーワードになる。そして真理はいちいちの「言説」をとおしてはじめて、その都度、「現実」のうちに顕現する。「もの言う病気」が存在し、その病気が物語る「真理」を聴き取ることが分析家の役目である。転移とはその真理を引き出すための「囮」である。人間主体を物化する心理学主義(「心理学人間 homo psychologicus」というヴィジョン)とはぎゃくに、「精神分析弁証法[対話]とみなす」ことがラカンの立場だ。その弁証法における構造的断綴(scantion)のうちに、「真理が変形する」(ヘーゲルにとって真理は可変的である)。「転移は感情の神秘的な固有性のもとにあるのではなく、たとえ転移が心の動揺の外観を呈して明かされるものであっても、その動揺は転移が生ずる弁証法的時点とともに変わる意味しかとり得ない」。対話=弁証法において、障害(「彷徨」)とみなされていた転移が真理に「反転」する。フロイトはみずからの逆転移に無自覚であったためにドラの分析に失敗した。しかしその失敗そのものが真理を明かしている――ラカンはそう言いたいのであろう。フロイトはみずからをK氏に同一化させすぎたためにK夫人へのドラの同性的愛着に気づけず、それゆえにドラの病気がみずからの女性性の神秘の探究をいういみをもっていることを見抜けなかった。ラカンはドラ症例を、三段階にわたる「真理の展開」とその「弁証法的反転」からなる一連のプロセスとしてえがきだす。

 

[1]自身が「女性の交換」に供されている現実について「私が原因ではないのです」というドラにたいし、フロイトは「おまえが嘆いているそのゴタゴタのなかになにがおまえ自身なのか、よく考えてみよ」と答える。この「反転」は、ヘーゲルによる「美しい魂」の分析にもなぞらえられている。

[2]K氏との関係はドラ自身の共謀によって可能になった。ドラ、父親、K氏、K夫人の踊る「カドリーユ」が、性的提供の「贈与」の循環としておもいえがかれる。この贈与を父親がK夫人にたいして「支払い不能」であることの報いをドラが「流動財産」として受け取り、それをK氏に弁済する(「平行的な贈与」)。転換症状に見てとれる不能の父への「優越的な」同一化(「財産」)は、父親への嫉妬を説明できない。そこでフロイトは、K夫人へのドラの「嫉妬」がじつはK夫人というライバル自身への愛着の「反転」であることを推察する。

[3]かずかずの証拠(性の手ほどき、「魂をうばう身体の白さ」……)によってその推察のただしさが立証される。しかしK夫人への同性愛的愛着は、ドラじしんの「女性性の神秘」の探究へと「反転」する(二つめの夢)。「神秘」とはすなわちかのじょが男の欲望の対象になり、「交換」の対象に供せられるその原因にほかならない(「マナ」)。

 こうした弁証法的な諸段階を経て、「ドラがその生涯のなかで展開した状況がことごとくそこから溢れ出てくるイマジネールな母胎」がつきとめられるに至る。

 

 すでに私の射程にみえてくるのは[古代ローマの円形競技場の]周り石[borne]のようなもので、私の戦車は、彼女の競技場[carrière]を一気にひっくり返すためにその周り石のまわりをまわらなければならないのです。それはドラが到達するもっとも遠い心像、彼女の幼児期の心像です。(高橋徹訳)

 古代建築の隠喩は「鏡像段階論」におけるそれを想起させる。人類学的な贈与理論はここでかねてからのイマーゴ論に接続される。本論の過渡期的な性格をしめすものといえよう。

 

 同性愛的な傾向にたいするフロイトの偏見は、エディプス複合を根底から支えている。それによってフロイトは父性の優位を「規範的なもの」ではなく「自然的なもの」とおもいこんだ。そのいみでドラ症例はエディプス複合の自己批判の書である。ラカンはそのように言いたいのであろう。