lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

精神分析にとって罪とはなにか?:「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」

*「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」(Introduction théorique aux fonctions de la psychanalyse en criminologie, 1950)

 

 同年の「フランス語圏精神分析家会議」における Michel Cenac との共同発表。『エクリ』所収。最初のパートのタイトルには「人間諸科学における真理の運動について」と掲げられている。「理論は自然科学において、認識の運動自体である内的一貫性というこの要求を実際にいちども免れることがなかった」。 人間諸科学においても、「真理」は「行動」という現実において「顕現」する。認識は「運動」であり、真理は運動に委ねられている。「真実はその不活動のなかでつかむことのできる与件ではなく、活動中の弁証法である」。そして「弁証法というものは血の通った肉体のなかを熱くなって循環している」。あるいは「真理」は「道」として思い描かれてもいる。

 

 つまり真理はまったき姿で現れることはない。人間のいちいちの「行動」においてその都度顕現するのである。ぎゃくにいうと、いちいちの行動は、それが真理の「ひとつの」あらわれであるかぎりでしかいみをもたない。「客観性」の全能をもって任じる行動主義心理学ラカンの批判の対象になるのはそのかぎりにおいてであろう。

 

 ラカンによれば「精神分析も本能理論を含んでいる」。ただし、「精神分析は本能を変形作用のなかに拘束されたものとして示す」。つまりさまざまな「運命」として「象徴」され得るだけのものとして。「これらの欲動がわれわれに現れてくるのはただただひじょうに複雑な連関のなかでである」。このような「象徴」作用によってラカンは人間なるものを定義しているのだといえよう。であるとすれば、人間諸科学における真理が、このような象徴作用によって特徴づけられていることはみやすい理だということになる。

 

 「犯罪的傾向」を「本能の横溢」によるものと考える者は、人間を犯罪に駆り立てる残忍さを人間の動物性に帰そうとする。ラカンによれば、これはおおきなまちがいだ。じつはこのような「残忍性自体が人間性を含んでいる」。いみじくもバルタザール・グラシアンは、同類にたいする人間の残虐性は動物たちのそれを凌駕していると指摘している。「人間は人間にとって狼」という言い草は、じつは動物にとって失礼きわまりない偏見なのだということになる。

 

 人間を有罪性によって規定する伝統に忠実に(?)、精神分析もまた人間主体をすぐれて潜在的な殺意によって規定していることを想起しよう。ラカンは、エディプス複合がこの殺意を潜在的な領域にとどまらせ、「非現実化」する抑止的な機能を担っていると考えているようだ。それゆえ、エディプス複合が準拠している「ブルジョワ的」な家族制度が脅かされると、人間の犯罪に歯止めをかけているものが失われるということになる。「家族という状況のなかに含まれている犯罪的な緊張は、この状況そのものが崩壊する社会のなかでのみ病因的となる」。ラカンはすでに「家族複合」の頃から、母権制の優位という人類学的な知見に則り、エディプス複合が準拠している家族制度を相対化する主張をしている。ラカンはエメ(およびパパン姉妹)の犯罪に自罰という心的な因果性を見出していた(超自我の病)。これらのケースにおいては、自分自身に向けられているはずの攻撃性が外部に向けられている。あるいみでエディプス複合が抑制しきれない殺意がじっさいの犯罪として現れた一例とみなせるかもしれない。この頃のラカンは、エディプス複合という神話的でブルジョワ的な概念装置の本質を超自我の機能に帰そうとしているようにおもわれる。いわく、「超自我はエディプス体系の社会的諸条件に結ばれた個体的な表現と考えられなければならない」。あるいは超自我は「人間という種に特有の意味作用をもつひとつの心理学的要請」である。「種」……。生物学へのラカンの大胆な参照は、つぎのようなくだりからも窺われる。「精神分析の発見したおそらくはもっとも基本的な心的現象、つまりその形式的な力が生物学においても証明されている同一化……」。鏡像段階論における動物行動学的な知見の援用にはデリダ一定の評価をあたえている。

 というわけで、エディプスの概念にとらわれているかぎり、犯罪の心的因果性を見極めることはできない。エディプスの本質である超自我の機能を考察することによって、犯罪を抑止することが可能であるかもしれない。いわく、「精神分析は、超自我によって決定されるさまざまの犯罪を理解することによって、それを非現実化する」。

 

 精神分析は犯罪を人間の行動の一様式として理解しようとする。「精神分析は犯罪の現実性を否定することによって、犯罪者の人間性の否定をやめた」。犯罪において精神分析が見出そうとするのは、罪の真理ではなく、犯罪者の真理である。前者は警察的な領域にあるが、後者は「人類学的」な領域にあり、それは無意識の殺意にかかわっている。「麻酔や拷問は犯罪者にかれの知らないことを告白させることができない」。それにたいして、精神分析は転移をとおして犯罪者の想像的な世界にアプローチすることができる。そのかぎりで精神分析は犯罪学に寄与し得るということであろう。

 「神経症的性格」をそなえた主体が「家族集団からの孤立」ゆえに犯罪に走るという本質主義をもラカンは退ける(たとえばラガーシュの「想像的行為」の概念)。犯罪を反社会的な個人の行為に帰すことはできない。ぎゃくに犯罪は構造的な異常である。神経症は社会からの離反ではなく、ぎゃくに現実に適応しようとする方途であり、社会性のひとつのあり方である(「自己補形的的切断」)。

 

 そのほかにも話題は多岐にわたるが、カントの「純粋な」義務概念および「罪を作るのは法」というパウロの言葉(「神が死ねば何も許されない」というカラマーゾフ的な認識と対にして提示される)への言及は目を引くもののひとつであろう。これらは『倫理』のセミネールで考察の対象にされるだろう。また、ヴェルドゥー氏(『殺人狂時代』)というケースへの言及も。

 

 ジャン=ピエール・シャルティエによれば、フロイトは同時代人であるロンブローゾ的な犯罪者観を引きずっており、犯罪者の精神分析にたいして否定的な見解を保持しつづけた。そしてフロイトが誘惑理論を放棄して以来、精神分析は現実の犯罪の考察から手を引いてしまった(『フロイトラカン事典』)。そんななかで、エメ症例から出発したラカンは犯罪を本質的な主題と考えていたのではないか。