lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

隠喩としての建築:「鏡像段階」論において描き出された夢の一場面の解釈

*「精神分析的経験においてわれわれに明らかになったかぎりでの<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」(Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je telle qu’elle nous est révélée dans l’expérience psychanalytique, 1949)

 

 1936年にマリエンバードで発表された鏡像段階理論のエッセンスを提示したチューリッヒ講演の原稿。

 「精神分析における攻撃性」では、「寸断された身体」というボッシュ的ヴィジョンが分析の進んだ患者の夢に現れることが述べられ、スケルトン状の魚に追いかけられるという夢が紹介されていた。同年の論文「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」において、「翼をつけ、よろいをつけた、体内透視図法[exoscopie]で描かれる諸器官」と表現されているものもそれのたぐいであろう。さらにヒステリー症状における「幻想的解剖学」(解離[schize]、痙攣)もやはり「寸断された身体」のひとつのあらわれであるとされる。それにつづくくだりでは、「わたしの形成」を象徴する夢としてつぎのようなヴィジョンが記述されている。

  

 Corrélativement la formation du je se symbolise oniriquement par un champ retranché, voire un stade, ―― distribuant de l’arène intérieur à son enceinte, à son pourtour de gravats et de marécages, deux champs de lutte opposés où le sujet s’empêtre dans la quête de l’altier et lointain château intérieur, dont la forme (parfois juxtaposée dans le même scénario) symbolise le ça de façon saisissante. (Ecrits, p.97)

 典型的なラカン節で読解不可能であるが、とりあえずつぎのように訳してみた。いかがであろう?

 

 [……]城壁をめぐらした野営地、ひいては円型競技場のような空間。内部の空間から城壁を隔てたその外部には瓦礫と湿地がひろがっていて、戦場を二つに分けている。主体はその戦場にいて、遥かに望む塹壕内部の高く聳えた城を目指しつつ身動きがとれないでいる。その城の形状(ときとして同じシナリオのなかで並置される)はエスを見事に象徴している。

  夢のヴィジョンであるから当然と言えば当然だが、謎めいた光景である。聳えた城とは、「主体」が到達しようとする「自我」なのであろうか。二つに分けられた[opposé]戦場とは、なんらかのいみで鏡を暗示しているのであろうか。エスの「形状」と聞いて想起されるのは、「自我とエス」のなかでフロイトが描いているれいの不思議な図形である。そこでは、自我がエスと連続的でありながら、そのぜんたいを覆うことなく、「胚芽が卵の上にのっているような形」で、知覚系と接触する部分だけにちょこんとのっているとイメージされている。この図がラカンの念頭にあったとするなら、兵士たる「主体」に見えている城のてっぺんが、かれが同一化したい自我であるということにでもなるのだろうか。「同じシナリオ」云々というのは、映画の画面分割みたいに城の全体像と城のてっぺんだけの映像が同時に見えているとでもいうことなのだろうか。なんせ夢のなかの話ですからね。

 

 このあとのくだりでは、うえで述べたようなヒステリーにおける「器質的」次元における「寸断された身体」の表現と並行的なものとして、強迫神経症における「心的」次元でのその表現への言及があり、そこにおける[思考の]逆転、切り離し(isolation)、反復(réduplication)、取り消し、移動のメカニズムが「城壁を巡らせた建造物」(ouvrage fortifié)の隠喩をすぐさま呼び起こす、とされている。その全貌が明らかではなく、こうした策術の背後に見え隠れしているといったイメージででもとればいいのかしらん?