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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「13という数と疑念の論理的形式」(その2)

*「13という数と疑念の論理的形式」(suite)

 

 ……この場合もまず、4枚ずつを皿に乗せる。

 

 平衡すれば、悪貨は残りの5枚のなかにある。その場合、この5枚だけを使って、そのなかから1枚の悪貨を特定することはできない。

 

 ところで、4枚のなかから1枚の悪貨を特定する場合も、4枚目を皿に乗せることはしない。じっさいに皿に乗せるのは3枚だけである。

 

 これは目下のケースにもあてはまる。

 

 そこで二回目の計量。すでに良貨と判明しているなかの一枚を、疑惑の一枚と同じ皿に乗せる。他方の皿に疑惑の2枚を乗せる。

 

 平衡する場合、悪貨は残りの2枚のいずれかである。

 

 平衡しない場合、ふたたび「分裂した疑念」に直面する。良貨と灰色(疑惑)のペアが重いか、もしくはその逆かという二つの可能性がある。とりあえず残りの二枚は良貨であることがわかる。そこで、そのうちの一枚を、良貨とペアにしたほうの灰色と置き換え、この灰色を、灰色どうしのペアのうちの一枚と置き換える。

 

 平衡すれば、最後に取り出したものが悪貨である。

 

 傾きが変わらなければ、灰色のペアのうち、動かさなかったほうが悪貨である。

 

 傾きが逆転すれば、良貨とペアにしたもの(他方の皿に移したもの)が悪貨である。

 

 というわけで、いま皿に乗せたものの組み合わせは良貨1枚と灰色3枚という「3と1による態勢」である。

 

 ところで、「この3と1による態勢は疑念の論理の原型的形式である」。12枚を使った最初のクイズにおける「三分割のローテーション」は、このひとつのバリエーションである。

 

 そこでラカンは、「3と1の態勢」が普遍的な態勢であることの証明に移る。

 

 たとえば、4回の計量まで許容する問題では、硬貨が何枚までなら解決可能であろうか?……答えは40枚までである。

 

 というようにどんどんためしていくと、以下のような法則性が導き出される。

 

 「最初の計量に含まれる硬貨のなかに悪貨の存在が明らかになれば、選択を利用すること。そうではない場合には:良貨を一枚持ったうえで、つまりここに提起された条件では二回目の計量の配列から、3と1による態勢を導入し、そしてそれをこの後に来るすべての計量に、この計量のどこかで悪貨の存在が明らかになるまで繰り返すこと。

 そこで、すべての操作の転換点である三分割のローテーションを作用させること。3と1による態勢は諸グループの一つにおいて切り離され、選択はこれらのグループのなかで分離を行う。

 この選択を結論づける計量によってこのグループのなかに悪貨が探り出された場合、これは解決すべき唯一の複雑なケースであるが、3と1による態勢が維持される同じ可能性でそこにおいて選択を繰り返すこと、そしてその解決が終わるまで同様にすること」……

 

 ラカンのもてあそぶ論理学的操作の信憑性はわたしには判断できない。個体のアイデンティティは無媒介的なものではなく、自身をそれではないものと仮定するプロセスをとおして獲得される。この認識はデカルトのコギトにおいてすでに提示されている。ただし、デカルトはこれを純粋に内省的なプロセスと見なしていた。「論理的時間」は、このようなデカルト的立場を批判し、個体のアイデンティティは他の個体との競合関係においてはじめて獲得されるものであること、また、それは純粋に論理的な過程ではなく、行為によって(あるいはその行為の動機となる「おそれ」という情動)によって規定されるものであることを示した。本論文は、やはり個体がつねにすでに集団によって規定されていることを、一連の複雑な法則を提示することで疑似科学的に示そうとしているが(サイバネティクス的なものへの志向に導かれているのであろう)、結論部では「論理学への回帰」が言祝がれている。「現代思想」によって貶められている「古代的な思弁」をリバイバルさせるという身振りそのものは魅力的ではあるが、この論文の内容は「論理的時間」の知見を前進させる議論であるとは思えない。

 

 われわれはこの教訓を、個体と普遍の総合というものが具体的に政治的な意味をもつ者に捧げることにしよう。他の人たちについては、ここで証明された形式を現代の歴史に適用してみるがよいだろう。

 だれか実証してくれないものだろうか?